→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.5.10] ■■■ [494]安万侶五十音図もあり得よう 大陸では、戦乱は日常であり、居住域の人為的な変更が多い上、強制的言語変更も少なくないから、ごちゃ混ぜは避けられず、音素数はどうしても増えがち。それに対して、島嶼では、気候や土壌・地勢環境がもともとフラグメント化している地なので、箱庭的に土着化した雑多な人々の寄せ集まり化する可能性が高い。そのため統一言語化すると母音も子音も習合や廃止の方向に進みがちで、音素数が減っておかしくはない。性情が逆となる可能性は高かろう。 そんなところでか、倭語は母音も子音も数を減らしていったようである。結局のところ、総数を50程度に抑えることで容易くコミュニケーションを図れるようにしたと云うことのようだ。 形而上学的にも映る母音子音の区別は嫌われたようで、その辺りの言語学はもっぱら専門家に任せ、母音・子音観念を取り払った全50音素への集約が図られたのだと思う。 言うまでもないが、その嚆矢が「古事記」。 (悉曇の文字表記は、<母音文字単独>と<子音文字+母音文字>合体文字がそれぞれ1音となるが、合体文字の母音文字は形態変更させた母音記号を用いる必要があり、かなり思弁的な規則と云えよう。) ちなみに、「今昔物語集」の編者は、天竺・震旦・本朝という世界観を披歴しているが、表音文字主語述語文法・表意文字主語述語文法・情緒的表記述部文法という相容れ難い土台の違いを理解していたことは間違いない。太安万侶から連綿と繋がる知識人の教養の高さ物語る。 換言すれば、「古事記」は、悉曇学の素養と、漢字の音についての深い知見なくしては成立し得ないと云うこと。 例えば、漢字音素読みは原則呉音としようという方針が見えるが、これはどう考えても、漢籍読みは漢音たるべしの裏返しである。 一般的には「いろは歌」(当て字:色葉歌/以呂波歌)は、覚鑁[新義真言宗祖]:「密厳諸秘釈」12世紀の注釈に従う。(「涅槃経」無常偈の意訳との見方。) 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず [末尾追加@鎌倉期]京 or ん (@歌留多:"京の夢大阪の夢") 実によくできていて感心させられるが、どう考えたところで、目的は50音暗記でしかなく、人々にとって生活上も50音を知っておく必要が生まれていたことを示しているのだから、かなり後世に成立したのは間違いあるまい。 この「いろは歌」に先行して作られたとされるのが、濁音フリーの48文字とされる「あめつちの詞」・・・ [一説] ここでは、初音は 万葉仮名表記版もあり、その場合は、総数47文字だそうな。 「 [一説]於と江が脱落 ここでは 仏典の注釈書「金光明最勝王経音義」1079年は、実質的には436漢字辞書で、字音注・意義注・和訓@万葉仮名(撥音・四声・アクセント付き)記載。名称は五音図とされている五十音図と、文献上最古になる「以呂波歌」が収録されている。但し、この字母表は、濁音表記文字を示すために記載しているように見えるから、発声的基礎表ではなさそう。(五十音図という用語は、同音相通同韻相通という悉曇学が再興した江戸期に成立したと言うことかも。) 以呂波耳本へ止 伊路八尓保反都 千利奴流乎 知理沼留遠 和加餘多連曽 王可与太礼祖 津祢那良牟 ツ年奈羅无 有為能於久耶万 宇謂乃×九也末(麻) 介(気)布(符)古延弖 計不己衣天 阿佐岐喩女美之 安作幾由馬(面)弥志(四 七) 恵比毛勢須 會(廻)皮(非)文(裳)世寸 ここでは片仮名・平仮名の 甲乙音を無視し、現代感覚での太安万侶版「五十音」図を作成すると以下のようになろうか。 附表は避けているものの、実質的にはほぼ完成していたことがわかる。📖"阿〜和"全87音素設定・・・ 阿 伊 宇 愛 意 迦 岐 久 祁 古 賀 藝 具 宜 碁 佐 志 須 勢 曽 邪 士 受 是 叙 多 知 都 弖 斗 陀 遅 豆 代 度 那 迩 奴 泥 能 波 比 布 幣 富 婆 毘 夫 弁 煩 麻 美 牟 売 母 夜 由 用 良 理 流 礼 呂 和 韋 惠 袁 【註1】 原シナイ文字@シナイ半島 or 原カナン文字〜フェニキア文字@レバント ⇒アラム文字@中東国際語 𐡀 ⇒ブラーフミー[梵天創造]文字@アショーカ王法勅 𑀆 ⇒グプタ文字@北インド王朝 ⇒悉曇[シッダマートリカー]文字 ⇒梵[サンスクリット]字=デーヴァ・ナーガリー文字 अ 【註2】 漢語の音表記方法は反切。(既知2文字の前文字の頭子音[声母]と後文字の頭子音を除いた母音音節[韻母]を組み合わせて字音を示す。)この手法は、音韻体系の知識と活用方法の熟練が不可欠。従って、科挙の高級官僚のレベルで通用するエリート層の知力誇示のための用法と云うべきもの。おそらく、表音文字の存在を知ったため、帝国としては組み入れておく必要性を感じたのだろう。漢字の数は膨大だから、実践上、そのような方法は不要であるにもかかわらず。(同音漢字の指摘で十分事足りる訳で。) 倭では、儒教学者と中華帝国外交担当官を除けば、反切導入は体面上のものでしかなかろう。実質的には類似音文字で対応していたに違いないが、漢語が日常語でない以上、漢字読みの標準化は必要となる。従って、音素文字は早くから措定されていたに違いなかろう。 ついでながら、朝鮮半島では独自文字化が極端に遅いのは、小中華思想と宗主国が許容しなかったせいだが、突然、卑なる表記方法とされていたハングルが勃興し始めたのは、エリート用の反切的表記ということで、小中華思想に沿っていると見なせることに気付いたからだろう。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |