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■■■ 「古事記」解釈 [2022.6.26] ■■■
[541]太安万侶が提起した倭語の独自性
「古事記」の本文の文章を初めて見たら、統一的に記述しようとの意志もなく、ただただ場当たり的に漢字を用いているだけの書に映るのではあるまいか。
漢文法を適用しているかの書き方をしながら、その実、全く異なっているので、そもそも読みずらいことこの上なしであり、ほとんど注目されぬ書の時代が長かったのもむべなるかな。
そんな状況を一変させたのは江戸期の国学勃興。しかし、結局のところ、音韻と漢字表記分類という分析論で終始してしまった様に見える。但し、本居宣長は"学"を越えて宗教的立ち場から日本文化独自論を接ぎ木。これが以後の政治情勢に受けて一世風靡ということのようだ。
 本居宣長:「古事記傳」1798年
   ①仮字書
   ②正字
   ③借字
   ④"此彼交"
この分析結果自体は、その通りだろうが、何故そのように並列にしたのかという本質的な問いに答えるための"学"では無い点が特徴である。現代なら、コンピューターで数分でできる作業であるが、当時としては絶大なる労苦が必要で、それをなんとか仕上げてみました以上ではないことになる。
素人からそれば、インターナショナルな目線で眺めさえすれば、ここから歩を進めるのは、たいして難しくもなさそうに思うが、そのような発想は無く、強引な信仰的主張でまとめていることになる。但し、それは国学だからということでもなさそうだ。天竺・震旦との違いを常に意識せざるを得ない学僧でも似たようなものだからだ。漢字表記分類(書様)迄は熱心だが、その分析結果を踏まえてインプリケーションに進もうとのパトスは生まれないのだから。
 仙覚:「萬葉集註解」1269年
   ①真名仮名…借音
   ②正字…翻訳意味訓
   ③仮字…異意味訓
   ④義読…上記混合
両者共に、学者の矜持として、精緻な分析を旨としていそうだが、方法論で問題が無いとは言いかねる。表記の基本単位はあくまでも語であって、単位音素では無いという点にさっぱり関心が向いていないから。"徹底的分析"の前に、ここらを考えておかなければ、上記の4つに分けなければならない理由も語れないのでは。他に表記方法はありえないのかの確認作業はされていないし、この4つの表記方法からどの様にして1つを選んでいるかの議論もできないのは、ココに起因しているのは明らかだからだ。
(要するに、概念思考が欠落しており、分析思考だけで検討していることになる。これでは、太安万侶は、場当たり的に表記方法を決めているというという結論しか得られまい。流石に、そうは書けないだろうが。
そもそも、「古事記」は、多数の作者の様々な作品の集成ではないにもかかわらず、編纂者自身が、記載方法を混在させている、と自信をもって高らかに宣言しており、単にそれに従って本文を逐一眺めているだけで、新しいことが見えてくるとは思えない。)


・・・素人が、不満げに、ここらをグダグダとあげつらうのは当たり前。
どの方法で記載されているか自明ではないから、学者を除けば、読み辛いこと甚だしだからだ。外国語である漢文表記の「国史」の方が余程読み易い。
どうしてそうなるかと云えば、上記の表記方法云々の前に、以下がどうなっているのかの解説が無いから。
   ㊀語彙の意味表記有無(混淆か純か)
   ㊁文字順列のルール
   ㊂読みは一意的(漢語 or 倭語)か自由か

母国語の書はどう読むか、つっかえつっかえ苦労しながら目を通すしかないが、外国語はそれなりにスラスラと頭で意訳可能というのが実情なのは、この点がはっきりしていないから。
だが、実は、これこそが重要な知見でもある。それに気付くか否かは、インターナショナルなセンスの有無で決まる。

例えば、こういった見方。📖素人実感に基づく言語の3分類
  (1) 音声型---英語を代表とする、梵語影響下の印欧語族
  (2) 記号型---中国語族
  (3) 情緒型---南島嶼語族と日本語

これが正しいか否かはどうでもよい。
言いたいことは、「古事記」を倭語の聖典とする本居宣長の見方は、ある意味妥当というパラドックスを語っているだけだからだ。
わかりにくいと思うが、≪音声⇒文字表記≫という一方通行ではなく、≪音声⇔文字表記≫という事実を認めることが必要と云うに過ぎない。

太安万侶は、これに早くから気付いていたので、倭語の大変革に取り組んだとも云えよう。もちろん、倭語を残すためにである。本居宣長の感性はそれを察したことになる。

文字化すれば、口誦語たる上記の≪情緒型≫は消えてしまう運命にあると看破したとも言える。極言すれば、「古事記」なかりせば、それこそ「萬葉集」が消えてしまった可能性もあると云うことに。

・・・主旨がおわかりになれるだろうか。

当時の知識人からすれば、太安万侶の主張は明瞭極まる。

○倭語には、2音素一語の"ka"とか、"ん"や、濁音、拗音は無いが、中華帝国の漢語を公的に使い始めている以上、必要ならその表音を採り入れて類似発音を始めるべし。
  (だからこそ、平安期に、"ん"や拗音が登場してきたと考える訳だ。)
○どうあろうと、すべての音素を早急に確定する要あり。
  ("か"が音素で、"k"は分類表音で発声する音素ではない。)

コレ、革命的。まさに、太安万侶は日本語の祖。
そこらをご説明しておこう。

・・・儒教を取り入れ、中華帝国圏に属するために漢語を用いれば、いずれ母国語は消滅することに、太安万侶は気付いたのである。(現在でもそれが全く理解できない人は少なくない。)
儒教に染まり小中華思想風土を確定した半島の状況を見れば、鈍感でなければ、知識人としては当たり前。
(朝鮮半島の為政者が、母国語の喪失状態を認識したのは、日本では武家政権の時代に入ってから。その時点で、古代の記録情報はすでに皆無。その後、だいぶたってから、突如、朝鮮史なるものが登場してくるのが実情。・・・外国文献を下敷きにした、小中華思想ベースの創作以外に考えられまい。
言語にしても、古代から、朝鮮半島では公用語は中華帝国官語で、その正統性を誇るような為政者の国家が多かった。従って、朝鮮語とされる語彙の主体は、中華帝国圏の辺境の地に残存している、変遷甚だしき、時々の古い官製漢語の半島訛りと考えるべきだろう。)


そうだとすれば、太安万侶は、インターナショナルなセンスを磨いている仏僧との交流で得られた知見を活かし、母国語文書化に心血を注いだと見なすのが妥当なところでは。

ここまで書いても、理解し難い人が多いだろうから、蛇足的に書き足しておこう。・・・

半島の公用語も、日本国の公用語も、ながらく漢語。おそらく、日清戦争までは、それが続いていた筈。(これを機に、大陸には膨大な日本語が入ったがその歴史はおそらく消されて行く。中華帝国の何千年もの歴史とは、有能な官僚が行う異国の新しきモノの合理的模倣政策。定着すれば、それを中華帝国文化としてしまい、不要な元を消し去るシステム。こんなことができるのは、広大な中華圏経営ができていたからで、武力制覇してその統治を漢語文書で行っていたからだ。つまり、漢語文書統治社会になるということは、中華帝国の中央官僚組織の一部に組み込まれたことになり、いくいくは漢族化することを受け入れたことになる。)
そのため、半島と日本国は漢語受け入れは同様と勘違いしがち。両者の漢語に対する姿勢は180°違っているにもかかわらず。
それを決定付けたのが「古事記」。

倭語を、厳密に漢字を選べば表記できるとしたのは画期的。・・・裏を返せば、漢文をママ倭語で読むことが100%可能と宣言したことになるからだ。
つまり、記録文書はあくまでも漢文だが、それを倭語で読むべしと主張していることになる。「国史」は純漢文だが、それを読む時は倭語で結構ということになる。
つまり、公用語は名目上は漢語でも、口頭では、引き続き倭語が用いられており、漢語文章とは記載文字でしかない。(ママ漢語を駆使するのは専門家とされたことになろう。・・・トリリンガルな、中華帝国圏からの高等難民と、鍛えられた漢籍・文書扱いの司書系専門官僚。さらに、知的エリートとしての仏僧。)

これに対し、半島の言語環境は全く異なっており、倭のような訓読みの手法は無い。従って、識字階層はすべてバイリンガル。漢語会話と漢籍用例に熟達することが上流階級の証だったと見て間違いない。逆に言えば、主に母国語を使用する者は2流と見なされる訳だ。後世、漢字使用困難層のため、サンスクリット語模倣のハングル文字も生まれたが、上流階層が使用を毛嫌いしていたのは自明。
帝国主義時代の植民地の統治構造を見れば明らかなように、上流層のバイリンガル化はなんら難しいことではない。と言うより、膨大な数の被支配層を峻別して統治するには好都合な方策だったと考えた方がよさそうだが。
倭国では、バイリンガル層が支配層とされなかったのは、大きなくくりでの、支配層-被支配層の分別が難しかったせいもあろう。身分が細切れになりがちで、奴婢の割合も、中華帝国型と比較すれば僅少だったから。

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