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■■■ 「古事記」解釈 [2022.6.29] ■■■
[544]坐の用法(補遺)
イマすの用法については軽く取り上げたが、尊敬語として使われている点については触れなかった。どうしてそうなことが可能か理解しがたかったからである。
ただ、在有居坐の峻別はそう簡単ではない。 📖在有居坐は類語では無い
  [歌5]吾が大国主 汝こそは 男に坐(いま)せ[伊麻世]ば
  [歌43]佐佐那美道を すくすくと 我が行(い)ませ[伊麻勢]ばや
  [歌97]鹿猪待つと 胡坐に坐(いま)し[伊麻志]
  [歌101]葉広斎つ真椿 其が葉の 広り座(いま)し[伊麻斯]
        其の花の 照り座(いま)す[伊麻斯]は

≪坐[土+从]
 【語源】土上二人対坐
  [呉音]ザウ
  [漢音]
  [訓]すわ-る おわ-す そぞろに ましま-す
  [「古事記」用例] <〜坐> <坐[場所(宮etc.)]> <名称> 等

それに、この文字自体にも揺らぎを感じさせるものがあり、気にかかる。
≪坐≒㘴≒𡋲≫≠≪座≫…「古事記」では座は用いていない。
     (「万葉集」では座は多用。 e.g. 吾己曽座[我れこそ座せ][巻一#1])


どう考えても、土上二人対坐というシーンに尊敬語となる雰囲気を嗅ぎ取ることはできない、というのが小生の感覚。漢籍にその様な意味で使われている用例が存在していたとも思えないからだ。
そうなると、"+土"を「説文解字」が大元としているが、人x2ではなく、+人とか、x2という呪・祭祀系統の文字が源流と考えた方が当たっていそうにも思えてくる。ましてや、从と丣=が同義になるとはとても思えない訳だし。

ただ、座する姿勢を意味する文字との解説を受け入れると、なんとなくわかってくる気がしないでもない。両膝を畳んで着地して、臀部を脚跟-踝にきちんと乗せる、日本國に於ける<正座>姿勢であれば、尊敬の念が籠められて当然かと思ってしまうからだ。それは楽な姿勢の<胡坐>とは異なっており、体面相手に対するボディランゲージと考えられるからだ。
しかし、そこに注目するのは、日本の現代人の視点で眺めているからで、大陸にそのような発想が生まれていた証拠は無いことに十分注意する必要があろう。

坐には様々な形があるが、よく知られるのは跪坐。足首を立てた不安定なものだから辛い筈。従って、これは恭順の姿勢で、尊敬-謙譲とは次元が違う。このシーンが嵌るのは、中華帝国の風土から考えれば、敗残した捕囚たる奴婢か生贄。その流れでの文字の意味もあったようで、<連座>など罪の表現以外の何物でもなかろう。
もちろん、儒教圏なので、こうした用例は色々あるものの、概ね、座する話をする対象は一般〜高貴な人の方。但し、それは土に敷いた茣蓙上ではなく<椅坐>である。中華官僚制度で規定されている椅子だと、初めて着坐する場合は<就坐>となる。どういう訳か座席と称されても、座は用いない。このことは、玉座の場合でも、天子は座するという言い回しになるのだろう。
「古事記」はこれを踏襲したと考えてよいのでは。

ここらに合点がいくと、冒頭の2種の"いませ"訳についても見えてくる。
  ませ[伊麻勢]ばや
  いま[伊麻世]
行と坐は全く概念が違う文字だが、同じシーンを表現する場合も少なくないのである。日本語が反文字の話言葉だったこともあろうが、漢字用法での意味拡張にママ乗るとすれば、行幸とは坐○でもあるからだ。・・・
漢語では<坐車><坐船>という、後から生まれたと思われる言い回しが現代までずっと続いており、どこかピタッと来る表現なのだろう。言うまでもないが、どう見ても乗の代替ではなく、乗の省略。座席は原則椅子であり、立位乗ではないことから生まれた用語と考えるのが自然だ。
行幸時の様子を正確に言うなら、天子は出立し、椅子席に<坐輿>され、目的地に向かわれたことになる。

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