→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.1] ■■■
[546]「万葉用字格」は頭の整理用文献
春登上人[1773-1836年]:「万葉用字格」1818年には、漢字表記倭語の読み方分類が記載されている。("あ〜ま・ら行+やゆよ+わゐゑを"の47音での整理。「古事記」は推定87音である。)著者は本居宣長の弟子筋で、時宗の学僧らしいが、この書を見る限り音韻論的考察は感じられないから、当時の常識をベースにした整理を追求しているように思える。しかし、皆が知る戯れ歌用例を整理する気は無いようだから、俗に染まっている訳ではない。

「古事記」成立時点から、とんでもなく時代が隔たっているし、対象は「萬葉集」一本なので、直接参照するべき書ではないが、どの様な考え方で表記するものか、ヒントを頂戴できる点で役に立つ。(「萬葉集」の場合、母集団が大きいので、ともすれば用例数の単純検討を行いがちだが、巻構成上、均一な母集団状況とは程遠いので拘らない方がよいと思う。様々な方法論の存在の指摘が有用ということ。)

この書では、表記方法を8種類に分けている。全体構造で云えば、漢字の音を音素と見なした<仮名>と、その残りの<訓文字>という当たり前の2分類である。

前者は、さらに2種に分けていて、漢字の音が、母音語たる倭の発音に適合するものを【正音】とし、母音でない尾音を省略して用いる場合を【畧音】としている。現代音でも-nの発音である。
   あn-かn-さn-たn-なn-はn-(正音)まn-やn
しかし、その仕分けの正確性には若干疑問がある。恣意的な変更をする意味もなさそうだから、揺れ動いている発音もあったと考えるべきか。↓*(小生は、濁音・撥音・拗音類は倭語にはもともと無かったと見ており、渡来語浸透に伴って確立していったと考えている。現在でさえ、濁音や拗音の発音は安定していないし。…と云うか、日本列島は海外の流れとは逆で、音を細かく規定せず、曖昧化によるより簡素な表音の方向に進んでいることの現れということかも。)
このことは、完全な略音化をせずに使うことも可能であることを示唆していそう。つまり、2文字熟語にして子音を繋げて曖昧化するわけである。わざわざそんな表現をする必要は無いと思うが、文字が面白いとか、識字を誇りたい気分の人が出てきておかしくない訳で。

訓については、もともと倭語は話語なので多義性であり、意味が場に依存するから、文字漢語と一対一対応させるのはそう単純にできるものではない。類似に見えても、概念の違いがあるから混乱は避けられない。従って、"正"と言っても、音の場合とは違って明瞭に対応文字を設定できる訳がないから、仏僧から見た常用用語判断で訓読みを決めたと思われる。

「古事記」なら、地文における基本語彙については、できる限り翻訳漢字【正訓】文字を当て、歌の方は、リズムと音が生命線だから、全面的に音素文字たる<仮名>にするのが筋だろう。一方、「萬葉集」の場合は歌集として独立させた書なので、100%目で読む歌になってしまった訳で、表意文字としての機能が取り込めるならその方が情緒感が盛り上がることになろう。そこは表現者の工夫次第。
たまたま音と訓が似ていたりすれば、渡りに"ふね"か。
  さて、どちらの文字を使うべきか。・・・
   自船追來 v.s. 作二俣小舟
それでも、船舶とボートの違いだろう位のイメージは浮かぶが、こうなるとそう簡単にはいくまい。
   參上天時 "山川"悉動 國土皆震 v.s.
    悉言向和平 "山河"荒神

【義訓】は、いかにも漢字使用を楽しんでいる雰囲気がある。丸雪とか冬風が漢語として通用するとは思えないが、漢語も同様に熟語を作っていたから、それならお洒落に行こうというところだろう。一種の流行語に近いが、定着してしまうこともあろう。太安万侶も、社会的に認められている言葉になっていれば、忌避するのも考えものだから、使用する場合もあろう。

【借訓】は、倭語に同音意義語彙が多いことから、自然に生まれた用法だろう。好字への変換は、本来は音だろうが、訓でもありえる筈だから。もともと、話語だけで、文字化するつもりはなかったのだから、異なる意味の翻訳文字を使ったところで違和感を覚えない体質ということもあるし。要するに、"訓"での仮名的用法ということになる。
これを用いれば、いくらでも親父ギャグ的な【戯書】が作れる。と云うか、好字書き換えとはそのような行為と紙一重。社会が成熟してくれば、このような表現だらけになってしまうだろうが、「古事記」は「萬葉集」と違って古代を対象にしているので、そこまでは行かない。

「万葉用字格」最初の<>部は以下のように整理されている。・・・
-----
【正音】…阿
【畧音】…安
-----
【正訓】…吾 我 旦 生 涸 浅 賊 敵 旭 開 暁 昶 明 堪 足 商 海 相 賸 他 (異) 恑 惜 靈 餘 數 蜻 蜓 霰 邊 耐 蕩 璞 漢 海人 海部 海士 海子 海夫 泉郎 明日 年魚 明旦 吾妻 粟路 數多 𪫧怜 求食 天降 荒風 漢女 不足 不猒 秋時 麁玉 荒璞 朝貌 旭時 諍競 乾坤 乾土 足曳 明夜 荒𤔇 有𤔇 清明 各競 梓弧 天漢 天踈 雨障 朱引 漢瀬 漢原 神亀 白水郎 馬酔木 聚率比 葦若未 足荘巖
【義訓】…妾 商 白 金 冷 痛 甚 東 荒 飄 留鳥 礒人 東方 朝鳥 丸雪 冬風 入潮
【畧訓】…網
【約訓】…荒磯 荒石 荒海 淡海 飽浦 朝明 朝開 旦明 朝ヾ 早ヾ 𡖆ヾ 朝旦 朝名旦名
-----
【借訓】…余 穴 尼 綾 文 合 蟻 味 朝 秋 荒 有 (宄 or 仇) 當 開 明 嗚呼 荒城 荒木 荒足 秋津 飽津 朝入 飽田 飽等 阿白 青羽 在衣 有礒 秋沙 相市 蟻衣 荒妙 足檜 葦引 新夜 秋柏 朝柏 惡氷木 蘆檜木 足日木 味狭藍 阿跡念 朝月日 青丹吉 茜草指 惡木山 味澤相 小豆無 年魚市方
【戯書】…山下 下風 阿下
例えば<[訓]あらし>はこうなっている。・・・
[正]荒風 [義]荒 飄 冬風 [借]荒足 [戯書]山下 下風 阿下

---------------------
「万葉用字格」<仮名>該当47文字 📖"阿〜和"全87音素設定
<ア>[正] [略]
<イ>[正] 已 (異) 移 [略]
<ウ>[正] 于 有 烏 汗 羽 [略]
<エ>[正]衣 依 [略]叡 曳 要

<オ>[正] 飫 [略]憶 應
<カ>[正]加 可 亜 何 河 荷 哥 架 嘉 我 蛾 賀 [略]汗 甲
<キ>[正] 枳 企 伎 竒 綺 棄 忌 寄 鬼 疑 義 宜 祇 支 [略]巾 吉 藝 [古事記]
<ク>[正] 苦 九 丘 鳩 玖 求 具 隅 遇 [略]君 群
<ケ>[正] 家 既 介 價 夏 牙 雅 [略]計 奚 鷄 谿 結 宣 礙 盖
<コ>[正] 胡 枯 巨 孤 故 去 姑 虚 居 祜 庫 呉 吾 後 [略]興 凝 黒 其 期 基 虞
<サ>[正] 沙 紗 作 者 社 射 䠶 謝 邪 [略]散 柴 草 積 相樂
<シ>[正] 思 之 四 亖 師 斯 子 (指) 此 紫 司 詩 死 侍 (肖) 次 趾 詞 緇 偲 事 水 自 慈 寺 士 時 [略]信 新 進 盡 式
<ス>[正]周 酒 洲 數 殊 珠 受 聚 授 [略]
<セ>[正]_ [略] 西 齋 暫 是
<ソ>[正] 素 祖 [略] 宗 僧 増 憎 則 賊 俗 所 叙 序
<タ>[正] 他 陀 駄 [略]太 丹
<チ>[正] 智 遅 治 耻 [略]
<ツ>[正] 通 豆 頭 [略]
<テ>[正]_ [略]低 氐 帝 底 堤 泥 提 庭 埿 天 田 代 𫢏{亻+弖}
<ト>[正]渡 度 土 [略] 等 刀 騰 藤 得 特 杼
<ナ>[正] [略]難 南 男 乃
<二>[正]爾 二 耳 尼 [略]
<ヌ>[正] 努 怒 弩 農 濃 [略]_
<ネ>[正]_ [略]年 禰 埿 尼 [古事記]
<ノ>[正]_ [略] [古事記]
<ハ>[正] 播 破 皤 把 婆  [略]盤 磐 伴 判 半 幡 方 芳 薄 泊 藐 八 伐
<ヒ>[正] 非 悲 婢 妣 毗 飛 臂 肥 卑 備 鼻 [略]𡩏 𡡮 必
<フ>[正] 敷 副 負 部 夫 扶 [略]
<ヘ>[正]覇 [略] 陛 平 遍 邊 便 辨 別 返 反 弁 部 陪
<ホ>[正]_ [略]朋 凡 本 煩 乏 寶 保 抱 方
<マ>[正]萬 満 末 摩 馬 [略]_
<ミ>[正] 彌 未 味 尾  [略]
<ム>[正] 無 謀 鵡 夢 務 [略]_
<メ>[正] 馬 梅 妹 咩 [略]面 免 迷 䏞
<モ>[正] 茂 [略]文 問 聞 門 (蒙) [古事記]
<ヤ>[正] 耶 野 䠶 [略]楊 移
<ユ>[正] 遊 喩 用 [略]_
<ヨ>[正]余 餘 [略] 容 欲
<ラ>[正]羅 樂 [略]浪 樂
<リ>[正] 梨 裡 [略]
<ル>[正] [略]
<レ>[正]_ [略]礼(禮) 例 列 烈 連
<ロ>[正] 侶 路 [略]
<ワ>[正] [略]
<ヰ>[正]為 位 謂 [略]井 居 座 座 率 集 [古事記]
<ヱ>[正] (𦘘) 囘 [略]
<ヲ>[正]烏 惡 [略]

<揺れ動いている発音>↑*
春登は18世紀の人。その少し前までは、難解な「萬葉集」所収歌は誰も読もうとはしなかった社会状況での学問。つまり、ほとんどゼロベースから組み立てたもの。そのため、現代の学問のように蛸壺化していないから、見方は参考になる。と云っても、大陸の漢字発音の変遷を想定するのは容易ではなく、古代漢語音と倭語表記文字との関連付けは勘に近いと見るべきだ。ただ、一般社会"常識"を重視しているようだから、そのような考え方のどこに問題があるかがよくわかる。・・・
大陸は、王朝転換が多く、しかも非漢語・異文字使用王朝の時代が長い。しかるに、科挙制度下での中華帝国の官僚は優秀であり、王朝支配者言語に合わせて漢語発音変更を一気に進めることを厭わう訳がない。(激烈な競争社会であり、能力なき官僚は即刻パージされる。)支配者層に通用しない音素は消えるし、異言語類似音への変更も大胆に進められる。方言的な流れとは違い、理屈に基づく作為強制的なものだから、都合の悪い発音は官語ではすべて抹消されてしまう。隋-唐期の発音表記は存在しているものの、あくまでも漢字⇔漢字"表記でしかないし、変遷は王朝音と云うことになるので、確かめる方法論なくしては、トレースは困難を極める。(秘匿された音韻論の書が残っていることを期待するしかない。)しかも18世紀から、大陸言語は言語論的に整備されつつあった。ヒントとなるような残滓は当時の官語からすべて消滅している可能性が高い。(古代の漢語発音想定の、最初の一歩のハードルがとてつもなく高い。非官語の地方発音を丹念に研究し、網羅的な比較をした上で、地方政権の歴史的変遷を追い、俯瞰的に眺める作業から始める必要があるからだ。)
---歴代王朝(正統史書)---
 ①「史記」②「漢書」
  ⇩
[581-618年]〜唐[618-690 705-907年]
…⑮「随書」⑯「舊唐書」⑰「新唐書」
  ⇩
後梁〜後唐〜後晋〜後漢〜後周[907〜960年]
…⑱「舊五代史」⑲「新五代史」
  ⇩
北宋[960-1127年]  "契丹人"遼[916-1125年]
…⑳「宋史」㉑「遼史」
  ⇩
"女真族"金[1115-1234年]+(属国)"タングート族"西夏
…㉒「金史」
  ⇩
"蒙古族"モンゴル帝国[1206-1635年]
  (元[1271-1368年])

…㉓「元史」

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME