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■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.25] ■■■
[570][放言]禊のユニークさ
「古事記」の言語を見ると、サンスクリット語(表音文字梵語表記)・漢語(表意文字漢字表記)・倭語(話語)という対立的な言語を十分に理解して記述しているように見受けられる。
誰が見たところで、全く文化が異なり、言語的に溝が深すぎて単語の交流はできてもそれ以上はどうにもなるまいと考えるのが普通ではないかと思うが、太安万侶-稗田阿礼はそれを逆手にとって、日本語を成立させたとも云える。
恐るべき能力、としか言いようがない。

「今昔物語集」編纂者ご指摘の通り、三国こと、【天竺】-【震旦】-【本朝】の違いは余りに大きいのにもかかわらずだからだ。📖三国観

ただ、この3国観は、はるばると文化が渡来してくる極東辺境の島嶼から見てのこと。文化論でよく言われる"吹き溜まり"の地の特徴というだけかもしれない。
中華帝国からすれば、"天山"を囲む4域ありとの発想しかないのだろうから。 📖玄奘の四風土論を参考にして欲しい
  🀁暑濕🐘象主之國…湿潤林野:天竺/印度[インド]
  🀂臨海💎寶主之鄉…高原:波斯[ペルシア(アーリア系)]
              (⇒大食[アラブ系イスラム]に取り込まれる。)

  🀃寒勁🐎馬主之俗…ステップ:玁狁[匈奴]
  🀀和暢👪人主之地…降雨平原:震旦[中華帝国"夏"]
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  🀆比例模型的地:[扶桑]

しかし、それにしても。
「古事記」は内容もユニークなのだ。

なかなか書こうという気にはならなかったが、正直に言えば、「倭国は天照大御神を祖神とする大和朝廷が統治する国」と、天竺や震旦の人々に対して胸を張って言ったのか、気になるからだ。(調べてわかることではない。)
大御神の生まれは、禊でのこととされているが、それだけでも大いに違和感を与えるのではないかと。
小生から見れば、伊邪那美命が、頂点に立つ神となるべく、死の世界から再生したように映るので、どうということも無しだが、震旦や天竺の観念とはかなり隔たっているのは間違いなかろう。
もちろん、禊行為自体はどの国でもありそうで、罪や穢れを聖水で流し去るという、誰でもが納得しそうなもの。しかし、その穢れから大神が生まれたと聞くとほとんどの場合怪訝な顔をするのではなかろうか。
なんとなくだが、南洋島嶼の海人しか通用しない感覚ではないかと思ってしまうのである。・・・

【震旦】
シィー [呉音]ゲ [漢音]ケイ
(上巳日)秋挙行の洗濯去垢[=除悪(妖邪)]"祓禊"水辺祭礼。
 武帝禊 霸上还[「史記」外戚世家」
 應劭:「風俗通(義)」曰:按周禮 女巫掌歲時以祓除疾病 禊者潔也
   [@「藝文類聚」]…[「周禮」春官宗伯 女巫之職]女巫:掌時祓歲除 釁浴
【本朝】
みそぎ><はらえ
垢離コリ@修験…訓読みではないが漢語には見当たらない。
【天竺】
沐浴ムクヨク…釋義漢語
聖河ガンガーは、雪山源流部側とデルタ側では住民は別名で呼ぶが、観念上では同一である。その全長は「古事記」成立時の日本國南北の距離を遥かに超えており、中流部国家の人々からすれば倭語の海の感覚に近かろう。(インド亜大陸と島嶼倭國の海感覚は異なる。沿岸域であっても、潜水どころか泳がない漁民がいてもなんら驚きではない。)聖河は、叙事詩によって人格神化されており、恆河女神信仰は古代から続いている。叙事詩では、天の銀河からシヴァ/濕婆神が自らの身体で地上へと流れを引き込んだとされている。(「古事記」の世界とは違って、神話とヒトの事績は別な世界でのこと。互いに切り離されている。)
聖水であるが故に、沐浴で祓除罪が可能であり、死後は火葬で浄化された後の遺灰を流すことで輪廻解脱が実現できるとの観念が染みついている。(仏教は恆河女神を取り込んだものの、この聖水信仰とは両立できかね、排除されていったとも云える。)

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