→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.1] ■■■ [577]太安万侶流倭語観を考えるに当たって 吾聖朝之人 道照法師・・・至於新羅 有其山中法華經 于時虎眾之中 有人 以倭語舉問也 法師問:「誰?」 「古事記」成立から1世紀も経っているものの、「古事記」序文同様に、<倭語>を意識していることがはっきりわかる記述と云えよう。 しかしながら、<倭語>は話語であったため(文字表記化にはサンスクリット的要素分解が行われており、デジタル変換のようなもので、その妥当性の判断はセンスの問題でしかない。)、実情は「古事記」から推定する以外に手はない。資料として、2万字は超えるものの、言語の特徴を読み取るのはかなり難しい。それでも、当時の世界を俯瞰的に眺めることにより、それなりに見えてくるものもあろう。洛陽辺りの文化観で書かれている魏志倭人伝からすると、かなり古くから<倭語>が確立していたように見える訳だし。・・・ この辺りのインターナショナルな見方が、結構重要だと思う。 大陸の王朝中枢部では、おそらく紀元前から、倭国の言葉の存在を知っていたのであろう。しかし、文字は使わず、貨幣も入れようとはせずという、かなり特異的な風土であるとの評価だったと思われる。要するに、中華思想の理解を越えていたことになる。 それが初めてわかるようになったのは、白川漢字学のお蔭である。強引な論証が多すぎるが、漢字とは神権国家の祭祀上の肝として生まれたことを明確にし、これがコミュニケーションの道具となったのは絶対王権が樹立されたからと看破したようなもの。 つまり、中華帝国王朝からすれば、倭国は文字が無い以上、国家の態をなしている筈がない、と断定してしまうことになる。 ところが、「古事記」からも、考古学的出土品からしても、相当古くから日本列島に文化圏ができあがっていたことになる。広域を差配する神権も王権も無いのに、疑似的な国家が存在しているように映るから、どうにも理解しがたいといったところだろう。 「古事記」本文には、漢文の序文と違って、中華帝国の話が欠片ほども無いのは、こうした違いを意識してのことでもあろう。 要するに、倭人にとっては、朝鮮半島や大陸との交流より、八洲と南島での交流の方が圧倒的に重要であり、この範囲内では方言はあるものの倭語社会と云えるだけの言語的統一性が実現していたことになろう。 現代常識的にはありえそうにないが、そう考えるしかなかろう。 【付言】中華帝国側から見れば、前2世紀、すでに半島経由で日本列島と交流。志賀島出土の漢委奴國王金印は後漢1世紀のもの。従って、漢字が倭国で知られていない訳が無い。 その後トレースできる材料はせいぜいが1文字がどうやら読める程度の用途不詳の出土品レベルと銭。文字を使う必要性は外交だけなので、渡来人にまかせていたというのが実態と解釈するのが自然だ。 しかし、銅鏡副葬の時代には一変している。銘文に、魏の年号の青龍三年[235年]があるし、銅鏡100枚を卑弥呼に下賜した景初三年[239年]と、遣使が賜与した正始元年[240年]が銘文に記載されている三角縁神獣鏡が500枚近く残存しているからだ。(その一方、実在年では無い景初四年の斜縁盤龍鏡も出土。もちろん、驚くべきことではない。三角縁神獣鏡は大陸で出土しないからだ。) ということで、最古の文字資料としては、5世紀末と想定される稲荷台1号墳鉄剣、稲荷山古墳鉄剣、江田船山古墳鉄刀。 このように、紀元前から大陸とは交流があったものの、漢字伝来は応神天皇代[15代 品陀和気命/大鞆和気命📖軽嶋明宮]で、百済からとされる。出典「古事記」ということに。📖漢籍渡来と漢字伝来は別な話 夫尋其本体 應神天皇之神霊也 我朝始書文字代結縄之政 創於此朝 [大江匡房[1041-1111年]:「筥埼宮記」] (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |