→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.6] ■■■
[582]「古事記」が読めなくなった理由
本サイト、しばしば話がとぶのでわかりにくいことおびただしく申し訳ないが、それでよしとして書いているので、ご勘弁のほど。それに、くどい箇所も少なくない。こちらも、それも止む無しと考えているのでご容赦のほど。
そんなことが多少気にかかったので、ここでRecapを入れてみることにした。

ついでに、当方の姿勢についても、お知らせしておいた方がよいか。・・・極めて少数だろうが、たまたま、当サイトの書き流しをお読みになる方もおられよう。それが切っ掛けで、気付きが生まれたりすれば嬉しい、と夢想してのサイト作成。もちろん、一所懸命に書いている訳ではない。(一般に、すでに観念が出来上がっている人は他人の言に影響を受けることは稀。変えようとするなら、用意周到な洗脳を図るしかあるまい。"気付き"とは、あくまでも、ご本人の自発的変化である。ただ、その時に刺激は不可欠で、その現象を「気付かさせてくれた。」と語るだけの話。貴重な一瞬であるから、そう考えても間違いではない。もっとも、模倣を気付きと呼ぶ処世術もあるので、わかりにくいが。)

・・・と云うことで、と話を続けてもよくわからないか。

ともあれ、「万葉用字格」1818年にはこだわらざるを得ない点について、書いておきたい。

この本だが、表面的には、質的に問題ありの辞書という印象を抱きかねない代物。しかし、それだからこそ、"考えさせる"という点ではピカ一。換言すれば、「どうして≪萬葉集≫を読める人がいなくなってしまったのか?」という疑問に関する見解が、辞書編纂を通じて表明されていることになるからだ。(この疑問は、「どうして≪古事記≫を読める人がいなくなってしまったのか?」に通ずるのは言うまでもなかろう。)

従って、その考え方を少しでも感じ取ることさえできれば、それだけでも十二分以上の価値があろう。・・・特定の漢語を収録せず、戯的表現の選択もいかにも恣意的。これだけでも、極めて思想性が強いことわかるが、あくまでも音韻論としての辞書である。従って、漢字表記倭語辞書としての網羅性発揮のために極めて誠実な姿勢を貫いているという、逆説的な評価をせざるを得なくなる。そこが秀逸。(換言すれば、倭語の音韻を知るために、「萬葉集」全歌を母集団とする分析は無意味と云っているようなもの。確かに、婆羅門まで入れて語彙の読みを検討するような方法論は、漢籍網羅検索ができない限り、避けた方がよかろうが、非倭語として例外扱いする基準をどうすべきかで悩まされることになろう。)
さらに、この辞書には、大いに期待できそうな点も。編纂者は、学僧としてのトレーニングを経ている筈で、サンスクリット音韻論の素養ありと思われるからだ。📖「万葉用字格」は頭の整理用文献

そもそも、「万葉用字格」が生まれた理由は、すでに「萬葉集」を読める人がいなくなってしまっていたことに尽きる。そういう点では、「古事記」も全く同じ状況だった。
もちろん、それを突破すべく、それこそ五万と云うべく、文字通り山のように検討結果が積みあがっていった訳だ。しかし、諸説芬々で、現時点でも、ほとんどが未解決と云ってよいだろう。

そうなってしまったのは、仮名文字登場せい。
仮名に慣れてしまえば、「萬葉集」での音素文字と翻訳文字の峻別感覚を失ってしまうからだ。「万葉用字格」はそれをわかってこその挑戦ということになろう。

この場合、音素・音節の概念について頭を整理しておいた方がよいと思う。素人の場合、なんといっても重要なのは、音素を、"実言語で"発音することがある最小単位と規定すること。

日本語の場合、五十音<あ〜ん>とその濁音が該当する。仮名1文字は純粋な音素文字。太安万侶がサンスクリット音韻にならって、倭語の音素確定を始めた結果であり、画期的というか、日本語祖語を創出したことになる。
英語であれば、<あ〜ん>は、アルファベット<a〜z>に当たるが、これを発音表記文字と規定すれば音素文字とすることもできるが、実態はそうみせかけた単語表記記号。語彙(単語)が認定されて、始めて音が判明するからだ。文字と発音は似ているのは間違いないが、コミュニケーションが可能なほどには一致していない。
このため、音の表記には、別記号を用いる必要があるが、そこまでしても、倭語からすれば音素文字とは言いかねる。(IPA/International Phonetic Alphabetは発声理論で創られたアルファベットだが、各母国語話者が各文字を音素として認識していて、当該1文字の孤立発声ができるとは限らない。倭語には孤立子音・重複子音・発声末子音が無いからだ。)
しかし、実用上、音韻分析はこうした記号を起用するしかあるまい。その結果、倭語に於ける音素の定義がわかりにくくなる。(それに、特別訓練されているとはいえ、非母国語のヒトの耳で仕訳した場合は、一意性の担保はむずかしいものがあろう。諸説並立は避け難かろう。)
厄介なのは、<か>=<k-a>というローマ字表記を使うため、これを2音素としかねない点。日本語には<k>のような独立子音は使われていないにもかかわらず、<a>と同列に解釈してしまうのはいかにも拙い。
実際の音素は<か>なのだ。音韻上、それは<あ>の系列音素。日本語のすべての音は母音系。太安万侶はこれを100%理解していたと見てよいだろう。

これを踏まえれば、漢字1字も音素文字ということになろう。ただ、日本語のように、発音記号が1か2では無く、原則4つ。音韻分析でそうなるだけで、これを1つ1つに分解できて、個々に発音される訳ではない。従って、漢字は音素を繋げた文節文字と呼ぶべきでないと思う。(このため、発音表記には、他の漢字と同じであることを示す方式が使われてきた。)複数の音素文字からなる語彙を文節とすべきだろう。と云っても、漢語は文構造表示言語だから、1文字が文章構成単位たる文節になることもあろう。
しかし、この見方はあくまでも漢語を母語としている人々から見ての話。倭語の観点ではそうはいかない。理屈では1漢字に4音が含まれており、ここから子音-母音を抜き出して倭語の1文字にできるのは例外的にならざるを得ないからだ。特に、子音で終わる場合、そのような発音は倭人にはできかねるから悩ましいものがあろう。子音を無視するか、適当な母音を付けて2音素化するしかあるまい。後者であると、発音記号では4文字になり、漢字とは中味は違っても数は同じなので、その方向で解決したくなるだろう。漢字が、仮名2文字の音となるのはここらに起因していることになる。
それはそれで、なんとかなりそうに見えるが、倭語表記に使おうとすれば、リズム上、1音1文字が望ましく、2文字では具合が悪いことこの上なし。
そうなると、強引に漢字発音をそのように規定するしか解決策は無い。その結果を「万葉用字格」は、比較的音が倭語に似ている文字を[正音]とし、末尾の子音を捨象した場合[略音]としているのは明らか。一方、翻訳文字を対応させれば、漢字の音とは全くことなるものの、普段の発音のママでよいことになる。[正訓]ということになる。
いずれにしても、1文字が倭語1音素に対応すれば、それは仮名文字と同義である。それぞれの音毎に、その数は少ないとはいえ、複数あるので、ある程度使い方を決めておかないとコミュニケーション上での障害を引き起こす可能性が高いから、「古事記」の場合は、それなりの不文律があったと考えるべきだと思う。稗田阿礼が文字を眺めて迷わないだけの峻別性があったに違いない。
しかし、それに従わずとも、わかるなら、歌人が色々工夫して、歌に知性を詠みこんだり、楽しさを与えるのも一興というのが現実社会だったと思われる。
そのうち、仮名は一意的に規格化されてしまったので、それまでの峻別感覚が失われてしまい。なにがなんだかわからなくなってしまったということだろう。ただ、音韻理論ではなく、多分に感覚的な仕訳だったと思われるので、詩人の心で文字を読み取れば、その差異を見つけることができる可能性はあろう。(もともと、サンスクリット音韻論で倭語の音素を規定している上に、倭語の発音を漢語とは異なる方向に進めてしまったのだから、音韻論的分析をしたところで、混乱をもたらすだけかも。)

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME