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■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.19] ■■■
[595]「古事記」の叙事詩的読みに挑戦
「萬葉集」は歌人の一首毎ではあるが、一意的に読める筈。しかし、仮名が定着してしまったのでこれが困難になっただけ。ただ、一流詩人が本気になって、心で文字を読み解いていけば、できないことではなさそう。

一方、「古事記」はそうはいかない。元のおと表現は1つなので、「萬葉集」より解決する道がありそうに思ってしまうが、実は逆。残念ながら、文字のおと表現は1つではないし、文字順序で発声するとは限らないので、文章を話語として復活できる訳ではないからだ。それに、揺らぎ容認だから、読者は勝手に倭語として文字を読めという方式。これでは、解答の出しようが無い。

この見方が当たっているかはなんとも言い難しであるが、「万葉用字格」を参考にしていると、そうとしか思えなくなってくる。📖文字化の考え方の違い

・・・と云うことで、その路線で、「古事記」を読むとどうなるか試してみることにした。
そうなると、選ぶべき箇所はほぼ決まってくる。主語がどうなっているのか、文章からでは、よくわからない文章ありがよかろう。SVО的な順列で漢文訓読みのような仮想レ点文章にせざるを得ない構造が羅列されているのも魅力的。ここを勝手に読めとされたら一体どうすべきか考えることになるのだから。
しかも、その文脈通りの歌も同時収録。
こんなに丁寧に記載したのだから、どう読むべきかわからぬ筈はあるまいといわんばかりの部分と云えなくもない。

小生には、倭語らしさ芬々の詩文に映るから、語順転換なくしてもなんらかまわないと見る。あらかじめ話を知っているから、意味が解ってしまう訳ではなく、常識的な判断で読み間違える可能性は低いというだけ。

そもそも、船を作る主語は何ナノとの疑問を覚えるような言語とは全く異なる。塩を焼くのと、琴を作るのが、同一主語か否かという発想とも無縁の言葉ではあるまいか。もちろんのことだが、は<〜の場合は>という意味でもよいし、主格の助詞でも一向にかまわない。状況用語であるからそのような仕訳は意味が薄い。(話語では、「東京行く?」はまともな文章。意識して主語や助詞を省略している訳ではない。「古事記」は史書ではなく、口誦の伝承叙事詩を文字化した作品。まさしく聴き手がいる話語。)

御世みよ_
免寸ときかは 西にし_あ-り ひとつたか-き

かげ
  あ-たる旦日あさひ いた-る 淡道あはぢしま
  あ-たる夕日ゆうひ こ-ゆ 高安たかやすやま

かれ
き-り 
もちて
つくり_ ふね
  いとと-くい-きふね_ 也
  とき なづ-く ふね い-ふ枯野加良怒

かれ
もちて ふね
  あさ_(な)ゆう_(な)
  くむ 淡道あはぢしま寒泉しみず
  たてまつ-る おほみづ_ 也

ここに
ふね破壞こぼれ
もちて  や-くしほ
とり_ やけのこり(し)
つくり_ こと
   ひび-くななさと

爾 歌曰:
[歌75]【人々】木船琴
    枯野を 塩に焼き
    其が余り 琴に作り 掻き弾くや
    由良の門の 門中の海石に
    触れ立つ 水浸の木の さやさや

 加良怒袁 志本爾夜岐
 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜
 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾
 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜

【此者 志都歌之歌返 也】

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