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■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.23] ■■■
[599]仏教事項捨象方針の鋭さ
"音楽"という語彙は仏教用語に近いので「古事記」では使用していない📖樂遊歌舞の近さという話をしたので、ついでにもう一言。

「古事記」は、仏教について一言も無き書。その方針は、倭語の文章化に挑戦するにあたって、即、決めた方針だったのではあるまいか。

何回か触れてきたが、「今昔物語集」を読んでいると、そんな気分がわかる気がするからだ。
著者名非記載・無序文だが、編纂者はインターナショナルな感覚のインテリ仏教徒と思われ、社会が仏教説話に沿った生活信条一色化されていく状況に残念感を覚えての、鋭意著述と見るからである。いわば、そんな世俗の流れに棹さすような作品を仕上げた訳だ。元ネタを換骨奪胎した道徳的説話が横行する社会に対する一矢というところ。(極めて危険な書を上梓できたのは、編纂者が権力者でもあったことを物語る。)
太安万侶も同じような感覚で社会を眺めていたのでは。(ただ、地位は中堅官僚なので、リスクはおかせない。)

「古事記」成立の頃といえば、社会総体として仏教への傾倒が進んでおり、倭語の叙事詩を文章化してしまうと、仏教説話的な解釈がなされてしまうのは必然。両者の観念が類似であるならそれで結構だし、それによって信仰的習合が深まるならそれでよしとなろうが、そうではないことははっきりしていたのだと思う。
天竺(仏教)・震旦(儒教)の精神風土も、言語環境も全く異なっており、せっかく倭語口誦叙事詩を文字化しても、注意しないと換骨奪胎されかねないと危惧していたに違いない。
ただ、儒教については、「古事記」収録譚が男女間の恋や近親婚だらけになるので、宗族信仰が持ち込まれても影響はそれほど大きなものではない。ところが、仏教はそうはいかないことにすぐに気付く筈。対処策不可欠となろう。

おそらく、仏教観念と相互浸透しかねない部分については注意深い記載を行っている。
しかし、そう思って読まない限り、そんな配慮に気付くことは無いと思う。それどころか、仏教的観念で読むことになり、違和感といっても、「古事記」には説明が不足していると感じる程度でとどまろう。(そう感じたなら、「古事記」を国史の補助文献としてお読みになることをお勧めする。)

仏教の考え方と大きく違うという点と云えば、なんといっても圧巻は、冒頭の葦牙的生命力の著述と云えよう。しかも、生命は、モノから成ることもあれば、男女の関係から生まれることもあり、このママ解釈すれば生命体が満ち溢れた宇宙観と云える。生命を苦労して創出する必要など無いのである。
しかし、そこには隠れる現象があり、それが死の概念と読み替えできるのが難点。(隠れても復活登場してくるのだから、忠実に解釈するなら、見えなくなったという意味と見なすしかないが、そうなるとどこに存在しているのかという難問を浴びせかけられる。)
倭人のもともと観念には、死という概念がなかった、とは云いにくいからである。

しかし、素直に読めば、死の概念は伊邪那美命によって創られた、というのが「古事記」の主旨であるのは明白。正確に言えば、死の発祥はココということに。・・・
 故 伊邪那美~者 因生火~ 遂 ~避坐也
   ・・・葬 出雲國 與 伯伎國堺 比婆之山 也

ヒト(葦原中國所有宇都志伎青人草)の死もここにおいて初めて生じたのである。それまでは、青人草は永続的だったということになろう。(草のような人とは記載されておらず、あくまでも"草"。そこに殺⇒死という概念が持ち込まれたことになる。)
 伊邪那美命言:
  「愛我那勢命
   爲如此者 汝國之人草一日絞殺千頭」

・・・倭人の見方はこの様になっていると、はっきりと示したかったのでは。

仏教の観念では、死は不可避であって四苦の1つ。
最終的に、逝くべき処に必ず往くという考え方が根底にある。そうなるのは、生への執着から離れよという理念が土台となっているからでもあるが、換言すれば、そんなことは言うは易く、行い難しという現実を直視する信仰だから。
苦行したからといって死から逃れることはできないというのがテーゼ。苦行は、あくまでも、欲望や執着を捨てるための修行で、死を超越することに意味がある。従って、方法論は、苦行だけではなく、一意的に決まらない。
大乗仏教化が進むと、ここに喜捨としての捨身が加わる。そして、慈悲の思想が説話として喧伝されることになる。インテリとしてはこの短絡的動きを避けたいと考えることになろう。

例えば、稻羽之素菟を助けるという"慈悲"行為を行うと、その御恩が返ってくるというタイプのジャータカ的な説話になってしまう。まず間違いなく発祥はスンダだろうから同根だが、両者は観念的には全く異なる。「古事記」には因果的な慈悲の哲学は無いからだ。(「今昔物語集」はそこらをわきまえた編集がなされており、仏教説話に使えそうにない譚を多数収録している。)

ここらは、もう少し追記が必要か。

【コラム】<うさぎ>文字は艸をつかっているが、植物の根無葛(菟絲)である。大陸で狡兔死のイメージが嫌われ代替字にされたのだろうか。倭からすると、草はヒト・毛モノ・植物を包含する生命体だから違和感はない。漢代の半島地名の玄菟郡で馴染みもあったろうし。
兔/兎[呉音]ツ 菟/莵/𫟏[呉音]ヅ/ツ 㲋(兔+鹿)[呉音]チャク 毚[呉音]ゼム 𢉕 䨲 嬎
尚、稻羽之素菟以外にも名称として用いられているが(上菟上國造 下菟上國造 菟上王 木之菟野郎女 菟田首等之女)、兔文字非使用という訳ではない。(免寸河之西)


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