→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.16] ■■■ [623]「古事記序文講義」(2:叙事詩か否か) その話の前段として、<上声>表記について語っておこう。 <上声>の寫筆落ちがあるとの説は論理的に映るかもしれぬが、南方熊樟翁なら、どこにそんな証拠があるのかと言い放つだけでは。(<上声>表記は特定箇所のみだけと見ることはできる。それ以上は推測で、その1つに過ぎない。この説の蓋然性は低いという論理的説明は簡単な上に説得性もある。) <去声>表記が異常に希少な点から見て、この記載には、何らかのメッセージ性があると考えるのが自然。文字表記化が進んでしまえば、それを読み解けなくなるのは当然だと思うが「古事記」成立時の読み手が納得できる表記と考えるべきなのは言うまでもない。 このようなことは些末な問題に映るだろうが、「古事記」を口誦伝統の叙事詩の文字化作品として眺めるなら、こうした姿勢で臨む必要があろう。 それはともかく、最初に書いた様に(「古事記序文講義」の著者は)神話と見なす論調には相当な抵抗感があるようだ。小生は、叙事詩と見なしているが、、正確にいえば叙事詩ではあり得ないとはっきり書いてある。 それでは何かということになるが、誰でも知っていることが買いてあるだけなのでガッカリ。 "元明天皇がその御遺業を完成しようとして勅を下された。"という序文の言葉を見ろというにすぎない。もちろん、それは、邦家之經緯 王化之鴻ということ。 「古事記」はこの天武天皇の勅に100%応えているのは当たり前であって、それは、叙事詩であるか否かという問題とは次元が全く異なる。 重要なのは、話語たる倭語を文字化した「古事記」は韻文なのか否か?という問いに正面から答えるかだ。 だれが考えたところで、邦家之經緯 王化之鴻という目的なら、韻文にする必要性はなかろう。と云うより、公式文章に規定される漢文で、系譜と由来を記載するのが筋では。(各国の官僚が由緒譚を調べ、すべて"漢文"で記載して報告するようなもの。) わざわざ、そのような目的のために倭文を用いるとしたら、それは、系譜を含め基本全面韻文と見るしかなかろう。・・・これが小生の見方である。 「古事記」本文には、太安万侶の解説文もところどころに含まれているが、これは読み手にはすぐわかるように書いてあることも、そう考えてしまう一因である。 つまり、皇室祭祀に於ける歌舞で語られる(歌謡の)内容が、どういった意味でどのような関係者が係わって生まれたのかはっきりさせるようにということ。 これは結構厄介な仕事である。 なかには完璧な秘儀もあるだろうし、担当の氏族の一子相伝だったりするから、一官僚が調べて回るような筋合いではないし、皇室外の地場祭祀とどのような関係にあるのかに至っては、それぞれ勝手な由緒譚がまかり通っていただろうから、五里霧中の世界だろう。 ともあれ、祭祀は行われているものの、皇族の人々にもそこでの歌舞の意味がわからなくなってしまっていておかしくなかろう。 このような背景を措定すると、単純な情報に映る系譜も、祭祀に於いて語られる韻文と見ることもできよう。(聖書にもその類と思しき系譜の箇所があるし、部族社会では語り部が朗々と、祖先から延々と王名を吟唱する仕来たりがあって当たり前。) ・・・何を言っているか、分かり難いか。 倭語は話語である。 基本は話者とその相手との会話ということになるが、会話でない話語言葉とは一体なんなのか。 どのような用途であろうが、言葉を残したいのなら、口誦して暗記する以外に手はなかろう。(記号・数字等の縄表示は用いられていたから、ID印もありそうだが、文章表示は無理だろう。)その情報量が、少なくて済むとは思えないから、リズムや抑揚をつけた暗記方法が常用されていた筈。従って、専門語り部も多かったに違いあるまい。(それこそ、受験用丸暗記用の"鳴くよ鶯平安京"的用法は当たり前。内容は散文であっても、暗記文言を口誦すれば、散文型とはみなせない形式になっておかしくなかろう。) ・・・理屈を捏ね回している訳ではない。フツーに考えればそうなるだろう、というだけ。 要するに、小生の場合は、こんな流れを想定することになる。・・・ 📖「古事記」所収歌は歌謡ではない 《古代コミュニティ歌謡》(口誦韻文+仕草)…残存していない。 ↓ ○"古代歌謡"アンチョコ書@1文字訓音表記☚語り部 ↓脱歌謡 《朝廷公的芸能》 ├┐ ○<みかけ散文(譚)+歌(アンチョコ部分引用)>☚文字化 ││ ≒歌謡的叙事詩「古事記」…文字化=脱歌謡 │○<楽(奏)+舞>⇒朝廷祭祀の主流化 ↓ 《社会的文芸》☚歌会 ○<独立歌>≒非歌謡的抒情歌「萬葉集」 ├┐ │○祭祀和歌(e.g. 鬼神を感じせしめ極楽往生実現) ○"和歌集/家集&撰集"(社交に必須の道具としての歌) ├┐歌譚(短編物語による装飾) │○"歌物語"(創作) ↓ 《歌人文学(創作)》 ---「古事記序文講義」<古事記の本質>での見方--- 歴史・文芸・神話の見方に対する問題点を指摘してから、自説を改めて語っている。 "古事記は推古天皇の御世まで行われた語部の傳承を採錄したもので、 その傳承は主として 國家統治の必要上傳へられたものであったといふ事になる。 而してそれが形式上語り物として傳へられたものであるが故に、 敍事詩といはるゝやうな點は著しくある。 しかし、 目的は敍事詩にあるのではない。 又、歌謡や~話が豐富であるが、 それらは古事記の全部でない。 又、歷史のやうであっても 實際歷史としての傳承が目的でなかったので、 どこまでも祭政一致氏族政治時代の 國家統治上の口誦的傳承を組織したものであるといふ事になる。 ・・・上述の如き事が本質である といふより外にいひ方がない。" 言うまでもないが、この著者の言う「國家統治上の口誦的傳承」とは、「皇道の本源」を形成する"素"のこと。 イデオローグとして登壇する以上、当然の姿勢。・・・ "私は常にいふように 現代のうちに神代を見るのであり、 又古事記の精~を現代の日本人に實現して行かねばならぬ と信ずるものである。" 上記の≪本質論≫で重要なのは、「國家統治上の口誦的傳承」ではなく、「組織したもの」という部分。要するに、誰かが組織化したのである。 この点で、序文の解釋としては秀逸。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |