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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.5] ■■■
[651]百済国と新羅国の記載は当然
「古事記」は、東シナ海の国際政治と仏教に触れないので、読者は、極めて奇妙な編集方針との印象を擁く訳だが、朝鮮半島の記述でさらにその不可思議感が増す。新羅国と百済国は記載されているのに 📖"くだら"と"しらぎ"について(国家滅亡で、高句麗からの難民が天武天皇代に数多く流入したに違いないのに)高句麗/高麗と任那については一切触れられていないからだ。(「新撰姓氏録」第三帙 諸蕃/未定雑姓に高麗系が多数収載されているにも関わらず。もちろん、漢や任那も収録されている。)

よくよく考えてみると、そう感じるのは、外交関係があったにもかかわらずどうして中華帝国が登場しないのかという感覚で見てしまうからで、それは「古事記」とは"日本国"の歴史書という見方を頭に叩き込まれているから。
「古事記」の"日本国"とは、大八洲であり、百済・新羅は含まれていないが、それぞれの王族は皇統譜上で繋がりがあるので、捨象などもっての他というだけのことだろう。半島南端の韓国・南海島嶼の海神王国の人々は海人であるし、血族に該当すると見なすべきという主張が籠められていることになろう。
逆に言えば、中華帝国や高句麗は非海人族の異国であり、天竺⇒震旦で培われた仏教も異文化ということ。当然ながら、倭の叙事記述からすれば無関係。

但し、百済・新羅は、漢籍から見るに、日光感精産卵神話を掲げて来た国であり、遊牧民のツングース(高句麗〜女真/満州系)だから確実に男系で、女系文化が色濃く海人創成譚の倭の風土とは本来的に相容れない筈。(太陽男神から降りてくる日の光を受け止め妊娠するストーリーと、女神が日子を地上の降ろす話は似て非なる内容。太安万侶はそのことに気付いていたようだ。)そうなると、半島南端のツングースは海人と混交したことになろう。
そういう観点で見ると、百済は、大八洲外の多島海での倭人国という半面を持っていたことになろう。要するに、西のソグド、東の百済は、インターナショナルな風土を確立したことになろう。実際、「隋書」によれば、様々な人々が居住していたとされる。
(「古事記」は、創世記から、大八洲国を倭のテリトリーとしての枠をはめている。ほとんど語られることは無いが、島嶼人と大陸人の文化の違いを実感させられる内容だ。当然ながら、朝鮮半島や南島域はこの内には入らない。・・・軍事独裁国家が「古事記」を大東亜共栄圏の思想的根拠にできる内容ではないことになろう。しかるに、何の疑問もなく、全く異なる解釈が諾々と受け入れられたのである。そのことについて語られることはほぼない。従って、今度は、逆の強引な解釈が諾々と受け入れられていると思われる。ついでながら、大東亜共栄圏的構想のハシリはすでに松下村塾で語られており、一般に言われているように、軍事独裁国家が創めた方策とは言い難いものがある。そもそも、明治維新では、攘夷をスローガンにして開国方針の幕府への対抗勢力を集めて権力を握った訳だが、結局は幕府の方針通りの開国一途で何が何やら。)
ただ、新羅への武力的入植は避けがたいものがあろう。半島は南西端以外は、高温多雨期間に欠け生産性が低い農業しかできない地。一般的には、倭人にとっては入植の魅力はほとんど無かろう。金属の入手先という点での重要なパートナーとしての交易国で十分である。しかし、気候温暖化の時期が到来すれば話は別。倭国は豊作で一気に余力が生まれるし、半島には耕作適地が生まれたのだから、進出の動きが出て当然。

---百済国・新羅国・韓国の登場箇所---
【邇邇藝命段】
於是詔之:「此地者向韓國眞來通 笠紗之御前而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故此地甚吉地」
【⑭天皇段】度幸之時 海原之魚不問大小 悉負御船 而 渡
爾 順風大起 御船從浪 故 其御船之波瀾 押騰
新羅之國 既到半國
於是 其國王畏惶奏言:「自今以後 隨天皇命 而 爲御馬甘 毎年雙船 不乾船腹 不乾䑨檝 共與天地 無退仕奉」故 是以
新羅國者 定御馬甘
百濟國者 定渡屯家
爾 以其御杖 衝立
新羅國主之門
即 以墨江大神之荒御魂 爲國守神 而 祭鎭 還渡也
故 其政未竟之間 其懷妊臨産 即 爲鎭御腹 取石以纒御裳之腰 而 渡筑紫國

【⑮天皇段】此之御世 定賜 海部 山部 山守部 伊勢部 也
亦 作劍池
亦 
新羅人參渡來
是以 建内宿禰命 引率 爲役之堤池 而 作百濟池
亦 
百濟國主照古王以牡馬壹疋 牝馬壹疋 付阿知吉師以貢上<此阿知吉師者 阿直史等之祖>
亦 貢上横刀及大鏡 又科賜
百濟國 「若有賢人者貢上」 故 受命以貢上人 名和邇吉師 即 論語十卷 千字文一卷 并十一卷 付是人即貢進<此和邇吉師者 文首等祖> 又 貢上 手人韓鍛 名卓素 亦 呉服西素二人也 又 秦造之祖 漢直之祖 及 知釀酒人 名仁番 亦名須須許理等 參渡來也 故 是須須許理 釀大御酒以獻
 :
又 昔 有
新羅國主之子 名謂天之日矛 是人參渡來也
所以 參渡來者
新羅國有一沼・・・
【⑯天皇段】
(太后) 暫入坐筒木韓人名奴理能美之家也

---金富軾:「三国史記」1145年[@高麗17代仁宗]ベースの百済王朝系譜---
(半島最古の文献になるが、統一新羅滅亡後の成立であり、編纂時点で半島に引用可能な資料が存在しているとは考えにくい。半島はあくまでも属国であり、天子承認無き史書類が存在する訳が無い。王朝転換後に、新王朝が引き継いだ官僚を使って前王朝史を纏め、正史を成立させると、歴史関連資料全てを抹消する文化圏だからだ。12世紀の時点で入手できた漢籍の再編書と考えるのが自然。漢籍からは、高句麗の出自は漢の玄菟郡@濊貊以外に考えられず、服属を拒む離合集散を繰り替えすツングース系の部族集団に過ぎない。系譜が意味を持つような王権の存在が確認できる古墳の登場はずっと後世のこと。従って、小中華思想ですべてを潤色した、公的創作書と見て間違いなかろう。漢籍記載名と伝承地名から推量することになるから、当たらずしも遠からずの場合もあろうが、宗族には本貫地はあるものの土着型ではないから、完全排除の移住も頻繁で、推測が外れておかしくない。そこらの判別は不可能であり、王統譜にたいした意味はなかろう。ただ、徹底した儒教信仰の上に思想がのっているから、倭国に徹底的に痛めつけられた事績は、子々孫々敵国抹殺の義務が生じている旨の口誦伝承を適宜組み込んだと見てよかろう。
と云うことで、「日本書紀」引用の3つの逸書は、亡命百済国官僚が中華帝国提出用ドラフトを日本国で完成させたと解釈するのが一番自然。)
(ついでながら、百済の読みは正式には朝鮮語の"くだら"の筈がない。日本を倭語の"ひのもと"と読むことが無いのと同じで。)
🈭(前206-8年 25-220年)夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・三韓・倭
東明聖王@高句麗(前37-前19年)
├@高句麗ー瑠璃明王(前19-18年)大武神王(18-44年)
│       ー・・・・・ー宝蔵王(642-668年)
└@百済ー①温祚王(前18年-28年)ー②多婁王(28-77年)ー③己婁王(77-128年)ー④蓋婁王(128-166年)ー⑤肖古王(166-214年)
🄽(220-265年) 🅆(221-263年) 🅂(222-280年)高句麗・三韓・倭
ー⑥仇首王(222-280年)ー⑦沙伴王(234年)
🈭西晋(265-316年) 夫餘国・馬韓・辰韓・粛慎氏・倭人
ー⑧古尓王(234-286年)ー⑨責稽王(286-298年)ー⑩汾西王(298-304年)
🅂東晋(317-420年)
    ⇒372年:余句/近肖古王を鎮東将軍領楽浪太守に
ー⑪比流王(304-344年)ー⑫契王(344-346年)
近肖古王(346-375年)[冊封国]ー
   泰和四年/369年制作七支刀を百済王世子が倭王に贈った。@銘文
ー⑭近仇首王(375-384年)ー⑮枕流王(384-385年)ー⑯辰斯王(385-392年)ー⑰阿莘王(392-405年)ー⑱腆支王(405-420年)
🅂(420-479年) 高句驪国・百済国・倭国
ー⑲久尓辛王(420-427年)ー⑳莘有王(427-455年)
蓋鹵王(455-475年)@"紀"逸書「百済記」神功-応神-雄略代
ー㉒文周王(475-477年)ー㉓三斤王(477-479年)
🅂(479-502年) 高麗・加羅・倭国
ー㉔東城王(479-501年)
🅂(502-557年) 高句驪・百済・新羅・倭
武寧王(501-523年)@"紀"逸書「百済新撰」雄略-武烈代
ー㉖聖王(523-554年)
🅂(557-589年)
ー㉗威徳王(554-598年)@"紀"逸書「百済本記」継体-欽明代
🈭(589-618年) 高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国
    ⇒百濟之先 出自高麗國・・・其人雜有 新羅 高麗 倭 等 亦有 中國人
ー㉘恵王(598-599年)ー㉙法王(599-600年)
🈭(618-690 705-907年) 高麗・百済国・新羅国・倭国・日本国
ー㉚武王(600-641年)[冊封国]ー
ー㉛義慈王(641-660年)
日本国(高級難民化)[非冊封国]
善光/禅広[日本国百済王]ー・・・
…百済国から欽明天皇へ奉納された阿弥陀如来像は、物部氏により、難波堀江に投棄されたが、品陀/本田善光が拾い上げ麻績郷に安置。[信州善光寺縁起]
「古事記」成立(712年)

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