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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.13] ■■■
[659]本文のプレ道教性[1]神名羅列は御祈祷
"「古事記」序文からすれば、倭の信仰は道教に近いことになりそうだが、本文からはとてもそうとは思えない。"📖と書いたが、これはあくまでも現代人の発想。
日本国には道教教団が活動した形跡は認められないが、その影響は広範囲に見られ、語彙に至っては汎用化していたりするから、民間ベースでの交流が古くからあったのは間違いないから両者は分けて考えるしかなかろう、という思考法も同じこと。

考えればわかる人はわかると思うが、こうした見方の妥当性を論理的に説明するのは簡単ではない。しかし、だからと云って、これに替わる考え方を提起できる訳でもないから同意しておくのが最良の姿勢であるのは言うまでもない。
ただ、分析思考でなく、概念思考を、というテーマを扱っているので、この問題に軽くふれておきたい。・・・「ガツンと一撃」の能力が無くて残念この上ないが、異端的ものの見方をひねりだしておこう。

まず、教団と民間の定義だが、思っているほど簡単なことではない。

「酉陽雑俎」の著者の道教の扱いを見ればわかるが、教団もあり、経典も整備されてはいるものの、あくまでも個別道士ありき。儒教では宗族祖への絶対的崇拝、仏教なら釈尊の教えに対する絶対的信奉、聖書の民であれば創造主に対する絶対的帰依の告白、といった絶対性があるが、道教には無く、思想性は後付けだからだ。誤解を恐れず言うなら、仏僧でありながらも道士という宗教家が存在しても驚きではない。道教集団とは、個々の呪術師の指導に従う土着の人々を纏まっていると見なしているに過ぎず、民俗と見られてもおかしくない。

ただ、民俗とみなすと、官以外は"未開"と見なす儒教感覚が働くので、意味を取り違えないようにしたい。仏教徒と目され、仏教サロンでの文化論談話を愉しむ当代一の知識人官僚である「酉陽雑俎」の著者は、道士とも懇意であり、修行も嫌いではなく、その知恵の深さと文化的面白さには感服しているからだ。これが道教の姿である。

この辺りがわかりにくい。
要するに、道教は、仏教に倣ってというよりは、仏僧によって土着信仰を「宗教」形式に衣替えされたことになろう。仏僧=道士であってもなんら驚きではない。
道教組織の主軸は表向きは教理だが、もともとフラグメントでとんでもなく広範囲の様々な観念からなる雑多な信仰の寄集め。時代の流行的にまとまり易い考え方で教派を形成したに過ぎず、教義ありきではない。
従って、組織のヒエラルキーや律、修行次第も仏教教団を模倣しているものの、それほど意味がある訳ではない。根が思想ではなく、実践の<呪>であり、相伝以外に機能しない内容だからだ。
しかしながら、組織は二の次ということにはならない。土着のバラバラな呪術師をまとめあげれば、国家から保護を受けることもできるし、反王朝ムードが高まっているなら土着勢力を纏める組織に急速発展する可能性は高いからだ。王朝としては、上手く抱えておかないと、極めてリスクが高い集団であるのは間違いない。

この様なイメージで道教をとらえると、全く違う「古事記」神話が見えてくる。

・・・と書くと誤解を与えるか。

「古事記」粗筋本のウリはストーリー性の高い神話だから、その見方を云々するように映るだろうから。
そうではなく、好まれていない方を指す。神の名前がこれでもかという程並んでいる箇所。現代人からすれば、聞き慣れない語彙がつかわれていてさっぱりピンとこない上に、どの様な神なのかわからないのだから、当然すぎる反応。
しかも、聖数の8柱毎に~をグループ分けしていて、いかにも恣意的な書き方に映る。ドラマティックな叙事詩的神話を期待する読者からすれば半ばガッカリでは。

小生は、これは現代人の感覚そのものと見なす。
古代人は、この羅列こそが命。だからこそ道教が残っているのである。

考えればわかる筈である。神々への御祈祷の<呪>にストーリー性などあるだろうか。
土着部族の祈りの原点は、その土地の祖と云うか、小さな宇宙の創造~であり、その宇宙が生まれた話である。それが、祭祀での<呪>語の原点であろう。
そして、個別の<願>は神々への祈りとなる。その基本形は、関係するすべての神々の御名を"正しく"呼ぶこと。聖数でグループ分けされて当然。間違えるなどあってはならないことで、綿々と口誦伝承されて来れば、普通はそうなる。

ちなみに、この神名羅列の次の発展段階は、各神毎に<お願いする>という特別な言葉が挿入されることになろう。そして、儒教国家になると、羅列はされず、ヒエラルキーに応じた形式が整備されていき、祈祷内容ごとに異なる様式が整備されていくことになる。
従って、「古事記」の記載は、プレ道教様式ということになろう。

【追記】神の名称は、土着女系部族はその地の特徴を示すことが多いが、遊牧系になると抽象・一般的にならざるを得まい。尚、星神名は抽象化を必要としており、後者のカテゴリー。
【付記】小生は、唐代の書「酉陽雑俎」を読んで、教団と民間の2分に意味が薄いと判断した。道観には、寺のような出家修行者の施設と、地場の鎮守的神社があるが、後者は表面的には民俗で、在家道士が運営することもあるが組織が無い訳ではない。呪術者の集団なので、ヒエラルキー的組織はあるものの、呪術流派の集まりであり、経典宗教教団とは根本的に異なっており、布教(説教)活動に重点は無い。道士は、評判が高まれば、天子に召喚されることになる訳で、土俗的活動と宮廷儀式の間に線を引くことも難しい。仏僧同様に過去帳作成と法事の役割を担うことになるので、基本土俗的にならざるを得ない。その様な純民俗的活動には風水から遺体処理迄雑然とした職業が含まれている筈で、教団活動と区別したくなる気分はわからないでもない。道仏比較書の一面を持つ「酉陽雑俎」の邦訳者は魯人研究者だが、その魯迅の言葉を引いておこう。…人往往 憎和尚 憎尼姑 憎回教徒 憎耶教徒 而 不憎道士 懂得此理 懂得中国大半 有何深意[「而已集」]


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