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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.20] ■■■
[666]本文のプレ道教性[8]天帝人間界観念は忌避
"プレ道教"と題して、つらつら書き連ねて来たが、この様な見方をすると太安万侶の序文の意義が次第にわかってくる。
唐朝の国教となった道教の立ち位置を確認した上で書いていることが見えてくると言った方がよいかも。

要するに、道教の一部とされる様々な呪術や思想は、もともとはバラバラな存在。それらは、日本列島に大陸からヒトが流入していたなら、それと共に暫時流入し続けて来てもおかしくなかろう。国家公認の宗教家ではないというだけのこと。その結果、渡来人周辺では、倭国でもそれなりに定着しているものも少なくなかろう。(呪術、なかんずく呪語など、秘儀相伝である以上由来が明かされる訳もなく、文字や図絵情報として記録されていないのだから、渡来か土着かの峻別ができる訳がない。たとえ明かされたとしても、それはその時点における呪術者の都合であり、その通りの出自であるとは限るまい。)
朝廷にしても、統治体制を崩さないなら、なんらかの実利があると耳にすれば、わざわざ詮索したり咎めるとは思えない。それどころか、今上天皇が聞き及び、お気に召せば朝廷公認もあり得よう。
それだけのこと、と見るのが自然では。

しかし、だからと云って、正式に道教を唐朝承認のもとに国家として受け入れることはあり得まい。すでに、唐の李王朝の"宗族"教と認定されていたからである。

儒教の場合、地場鬼神の宗教ではないから、"宗族"信仰を有耶無耶にして骨抜きにした形なら、宗教では無いと見なし、その国家運営思想を利用できる。しかし、脈絡なく寄集めた宗教の道教はそういう訳にはいかない。天帝界-人間界(皇帝 官僚層 被支配層)-死霊の鬼神界という観念が余りに明快過ぎるからだ。ここまではっきりさせられると、儒教の根幹である、皇帝の権威は天命にありとのドグマが根幹となっている信仰であることが明明白白。ここを曖昧にすることは至難。
いくらなんでも、これでは受け入れは不可能だろう。

ところが、「古事記」序文は明らかに、皇室の歴史の土台は道教と見なしているとしか思えない記述。
その理由を考えておく必要があるだろう。

小生は以下の様に読んだ。・・・

大化改新を断行した天智天皇@近江大津宮崩御の翌年(672年=天武天皇元年@国史)、皇位継承の"内乱"が発生("壬申の乱")。武力で権力を掌握したこともあり、中央集権体制が確立したことになろう。
結節点であることは間違いないが、その意味については諸説あるようで、内乱発生原因も単純ではなく複合的と見られているのだろう。

ただ、素人からすれば、対立の根本は、転換期に当たっての国家体制構築の方向性の違いがあるように思われる。
その大元は天智天皇代の白村江での完敗。唐との外交が不調にだった筈にもかかわらず、数次に渡って遣唐使が派遣されている。このことは、半島同様に漢語国家への道を歩み始めたと言ってよいのでは。
しかし、インターナショナルな視点で、"世界"の現実を直視している大海人皇子はその路線を容認できなかったということではなかろうか。内乱に勝利し、その流れを180度転換したと見る訳である。
天武天皇が打ち出した制度はほぼ中華帝国模倣に映るが、公用記載文字言語は漢語であるにもかかわらず、朝鮮半島王朝とは異なり、支配層話語の漢語への転換を取り止めたということと違うか。

この事態を、唐朝側から見れば、倭国の都の南方山中にある倭国に属する超小国の国王が、武力で倭国を打倒し日本国を樹立した(王朝革命)と映って当然では。📖「"舊"唐書」は、戦乱の大混乱の後に、かろうじて残存していた外交官僚組織の記録文章をもとにして945年に作成されたから、このような見方も頷ける。
唐王朝にしてみれば、半島を属国に統治させることに成功したのであるから、次は倭国をどうするか検討に入ったのだろうが、天智天皇と皇嗣は唐と丸く収める方向を志向したのだろうから、そこらで一段落という時に、突如、王朝革命の日本国が登場したことになろう。
そして、天武天皇即位〜702年迄は遣唐使は全く派遣されず仕舞い。唐朝の外交記録は空白になる。このため、1060年の「新唐書」では、新たな日本国情報に基づいて書かれることになる。倭国項は無くなり、皇統譜も初代から光孝天皇迄網羅的に記載され、一貫性ある国家と記載されることに。

こういうことだとすれば、天武天皇の施政方針は自明である。
下手をすれば、(半島の属国を含んだ)唐の侵略がありえるのいだから、それに対抗できる中央集権国家の樹立ということしかあるまい。と言っても、唐朝の模倣しか手はなかろう。
李朝の唐は真正の道教国家。だからこそ律令制度が機能していると見てもおかしなことではなく、日本国もそれに対応する道教的国家に変えることが急務と考えてもおかしなことではあるまい。その様の見れば「古事記」序文の感覚は痛い程よくわかる。
もともと、道教は地場信仰や様々な思想の寄集め。日本で類似の展開は難しいことではない。道教をよく知る仏僧の手を借りれば簡単至極だからだ。

こうなると、道教は渡来したか?に対する答は単純明快。

<天帝界-人間界(皇帝 官僚層 被支配層)-死霊の鬼神界>の観念は遺棄されるので、その観点では道教は一歩たりとも日本列島に入れなかった。
従って、唐朝認定道士の入国はあり得ないし、明らかに天帝を最高~とし皇帝に命を下す旨の記載がある教義書が入ってくることもない。しかし、道教とは地場信仰集成かつ、各種呪術同居型の宗教であるからして、倭国の地祇信仰の実態となんら変わるところがない。
天帝-天子構造を取り除いて、~統譜-皇統譜を組み入れさえすれば、倭国にも道教が存在していると言えないことも無い。と言うか、中華帝国の道教のコンポーネンツを組み込むことは自然の成り行きといえよう。
そこだけ見れば、ミクロには、いくらでも道教は入っているとの結論になろう。

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