→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.5.11] ■■■ [687] 「古事記」仮名清濁音 迦賀 そんな切っ掛けを生み出しそうな箇所は、実は母音文字表記ではなく、<か・が>の表記方法。 迦賀の表記はいかにも<ギリシア 印度 中原 倭>的で、まさに秀逸と言わざるを得ないからだ。と言うのは、か=加、が=我というのが、分析思考では当たり前中の当たり前だからで、もちろん、「古事記」がそれに従っていない訳ではないからだ。 ⑨カ(力:加の偏)か(〃) [萬]可…迦 @漢音 ⑩ガ [萬]我…賀 @呉音 「古事記」と「萬葉集」の主要な用字を見ると、−正確性を全く追求していないので説明は省くが−以下の様になっている。 ーーー 【正音】加 迦 賀 嘉 架 駕 𪟗 伽 咖 嗧 䪪 㚙 妿 㚳 𡶐 㤎 㧝 拁 枷 毠 泇 㹢 珈 𥑆 痂 瘸 䂟 耞 𧊀 茄 笳 𦙲 袈 跏 鉫 𩶛 鴐 䴥 ---清音専用音--- 加 伽 ---清濁両用音--- 賀 ーーー 【正音】可 何 荷 河 訶 珂 呵 坷 妸 㞹 抲 阿 柯 炣 牁 牱 珂 胢 砢 袔 䋍 舸 蚵 跒 軻 酠 鈳 䯊 魺 鴚 䶗 ---清音専用音--- 可 ---濁音専用音--- 何 ーーー 【正音】哥 謌 歌 彁 滒 鎶 㢦 戨 䔅 ーーー 【借訓】鹿 蚊 香 ---清音専用音--- 香 ーーー ---濁音専用音群--- 髪 【正音】我 餓 蛾 俄 哦 娥 峨 㧴 涐 【正訓】之 ーーー 【正訓 借訓】日 【略音】甲 【正訓】彼 歟 ーーー これだけでも色々気付きが生まれておかしくなかろう。 髪が濁音とは、恣意的に誤謬記載しているように映るかも。それはそれとして、何といっても、<賀>が両用だが、濁音表記によく使われているというのがミソ。 ・・・実は、雑炊言語の祖には濁音無しというのが、ドグマなのである。(渡来語との認識がある場合は別である。) 今でも、<が>の発音はよくわからないと、(非<ga>音が多用される。)実感する人が多いと思うが、要するに濁音の発音はとってつけたようなもので、清音を変えたことさえわかりさえすればそれでよいのであり、いい加減でОK。発音し易い音に収斂はするだろうが。 しかし清音のみの言葉に、濁音がなかったという訳ではない。現代にまで連綿と続く"連濁"というルールが厳然として存在するからだ。但し、このルールはおそらく分析的には細かくは解明できまい。なんとなれば、語彙が連結すれば後ろの語頭が濁音化するというだけのことだから。つまり、2語が緊密で切り離せないという情緒感を表明しているのだから、その時点での社会の風潮で決まるに過ぎない。 従って、濁音を含む単語は、もともとは、2単語から形成されていた可能性があろう。例えば、"かがみ"は"か+かみ"であり、さらに、この鏡に前置語をつけても、すでに連濁しているので、重複連濁となるので、"〜ががみ"にはなりようがない。(助詞等の濁音も、雑炊言語にとっては不自然であり、なんらかの由来があってしかるべきとなる。倭社会のclicheだろう。) 言い換えれば、本来的には、濁音表記文字は不要なのである。読者は連続単語を見て、清音表記でも、自動的に連濁して読むことになるからだ。〜川を"かわ"と読んでもよいし、"がわ"でも一向にかまわない訳で。 ただ、"かがみ"のように、連濁感を失っている語彙は親切に濁音表記をしておく必要はあろう。特に2文字など、濁音表記なかりせば読めないだろうし。(e.g. かず かぜ かぢ かど) ・・・<ギリシア 印度 中原 倭>的に考えるという意味がこれでおわかりだろうか。 何を言っているのか分かり難いと思うが、付け足しておこう。 「古事記」は世にも稀な極めて貴重な書。味わって読めば読むほど、その美味しさが生まれて来るからだ。 「古事記」フェチということではなく、超古代=紀元前6000年以前の、相対口頭コミュニケーション時代の言語ルールが隠されている可能性があるから。 要するに、濁音と静音とは、文字化文明の<ギリシア 印度 中原>では、語彙の差異を形成するだけの発音上の違いの一種以上ではないが、<倭>ではコミュニケーション上極めて重要な表現になっているということ。それは、文字化されていないからだ。この文明ギャップに基づく差異はとてつもなく大きい筈だが、それが透けて見えてくるのが「古事記」の文字書としての特徴。 <中原>文明言語とは、たとえ識字率が低かろうが、聴いた語彙は、上記の細かなダラダラ同類文字列のような同音語彙から判定することになる。同音でも異なる文字であることを、発声で表現する技法が発達せざるを得ない社会だ。(驚異的思想統制社会であり、どこまで強制的にこの様なことができたのか見てみたいもの。そんな古代社会の姿に憧れる自称知識人は少なくないのは御存じの通り。) この様な技法は自然に生まれる訳がなく、必要性から生まれた、後付け。社会的にはあくまでも文字表現優先だからそうならざるを得ない。(おそらく倭人は大嫌いな表現方法だったろう。それが、半島とは違って、漢語を公式話語にしなかった理由の1つ。) <ギリシア 印度>文明は1つで見るべきではないが、現代印欧語の元であり、語彙は厳格に定められた音素の順列で決まる点では同一。音素と簡単に言ってしまうが、社会として成り立つ様に都合で勝手に作り出したもので、文字表記化に他ならない。(現代の発音表記も研究し易い様に編み出されたもので、本質的に、誰かの耳に合わせて決めるしかないから政治的なものから免れることはできない。)極めて恣意的な設定であり、揺らぎがあって当然だが、標準化できなければ広域コミュニケーションが不可能であるから、理屈上、文字=音素ということになる。 これに対して<倭>は、おそらく<インダス>文明の血を引く、話語の世界観で生きる人々の社会であり、表記文字言語化を嫌悪していたと思われる。従って、語彙判定は<ギリシア 印度 中原>とは全く異なっている筈。(文字無しで音素観が生まれる理屈が成り立たないから。・・・文字が無ければ神典無しも当たり前だろう。) 例えば、濁音の意義は、<ギリシア 印度 中原>では、せいぜいのところ、五万とある語彙峻別のone of them以上ではない。しかし、だからこそ発音は、他の表現同様に間違いなく伝えるために神経を集中させる気遣いが必要となる。 しかし、<倭>はその様な必要はない。濁音的ならどうでもよい。(「古事記」は清濁音表記の分別はあるものの、表記上両用とされている箇所だらけ。清濁峻別にたいした意味なしとしている訳で、<ギリシア 印度 中原>文明言語からすれば、異常を通り越し、言語の態をなしていないことになろう。) しかし、それは軽視しているのではなく、表現の要となっているので、間違わないようにしたい。倭語の濁音は、one of them的な語彙IDの一部という役割を越え、単語としての認識に係る極めて重要な表現となっていると見ることができるからだ。 聴いた言葉を、とりあえず単語列としてキャッシュとして記憶して、文章が終わって述部を解釈し終え、初めて語彙の意味付けができるという手順を踏む必要がある以上、濁音あってこそ、語彙分別できるとも言えるからだ。 換言すれば、雑種言語としては、できる限り濁音無しでも伝わるような、極めて易しい言葉が望ましいことになろう。それは、美しいとか、優しいということではなく、キャッシュ化する際の面倒な労力の極小化が望ましいというに過ぎまい。雑炊的言語は、自動的に合理主義的な対応がなされるということかも知れない。 【付録】 --- 文字化後仮想@奈良時代 --- 📖"阿〜和"全87音素設定 📖[追記] 阿__伊__宇__衣__於 加__伎紀_久__計気_古許 賀__岐宜_具__下碍_呉期 (下⇔中) 佐__之__須__世__蘇曽 邪__士__受__是__俗叙 多__知__都__天__斗登 陀__尼__豆__提__度杼 那__尓__奴__弥__怒能 波__比斐_不__幣閉_保 婆__毘備_夫__辨倍_煩 末__美微_牟__売米_毛母 也__−__由__江__用余 良__利__留__礼__漏呂 和__為__−__恵__乎 (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |