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■■■ 「古事記」解釈 [2023.8.15] ■■■
[776] 太安万侶:「漢倭辞典」ⓋⓋⓋ
「古事記」の地文の漢字を眺め続けていると、現代に比べ、一般名詞の数が少ない漢字がしてくる。このことは、倭語の根幹は動詞であることになろう。
現代日本語の名詞や形容詞は、動詞のデリバティブの可能性が高いとの見方。

叙事たる「古事記」の文章が示唆する、もともとの動詞の活用形は極めて単純そのもの。
それは、動詞を連続して詠う習慣から来ていると思われる。
そんなことは当たり前と思ってしまいがちだが、倭人独特の感性と考えた方がよい。論理的に整理することを重視し、形成された概念をしっかりと把握しないと気が済まないサンスクリット語だと、その様な表現を使うこと自体が憚れる筈。
この違いは、おそらく、文字表記化言語であるか否かに由来すると思われる。相対会話なら場当たり的な情緒的表現でもコミュニケーションは十二分に図れるが、文字化されればそれでは意味が通じなくなるので、抜本的な姿勢変更がなされたと見るのが自然だからだ。
動詞の連続表現とは、見方によっては、と云うか、現代感覚からすれば、"複合動詞"を意味することになる。小生も、どうしてもそうした目で眺めてしまう。現代では、漢語2文字熟語が多いから、どうしてもそうなる。
 📖太安万侶:「漢倭辞典」成語

・・・考えてみれば、それは文章読みの作法そのもの。
しかし、「古事記」とは話語時代の口誦表現が記載されている書。そんな作法は実は通用してしないかも。
従って、ストーリーの流れに沿って、語り部が、動詞を連続的に繋げる表現を基本としていた可能性もあろう。実は、この表現こそが聴き手の心に沁みる決め球だったりして。
要するに、複合動詞の様に、互いに、意味的に粘着するのではなく、流れに沿って動詞が並ぶことで情景が浮かんでくるという仕掛け。
複合動詞の様に、限定的な語彙で慣習的に用いられる訳ではなく、自由自在な連続形が一般的だったことになる。

そうだとすれば、動詞の基本形は<連用>。それに加わるのが、連続打ち止め用法。
動詞の活用とは、本来はこれだけで十分では。
<連体修飾>とか<已然><命令>は活用形と見ずに、必要なら、末尾辞<-ル><-レ><-ヨ>が付属すると考えた方が圧倒的に解り易かろう。
(ついでながら、<未然>との分類は便利ではあるが、論理的には破綻している。基本形の<連用>と次元が違う見方なので分類原則を逸脱している上に、活用形が一意的に決まっていない以上どうにもならない。従って、議論は無意味。しかも、用語の定義自体ができない状況にある。…否定・推量・意志〜否定推量・否定意志、仮想〜仮定[条件]〜願望〜希望、受身、使役、尊敬、継続のすべてが該当する様なコンセプトが存在するとは思えまい。要するに、分類名としては"その他"。)
例えば、下記では3動詞連続。・・・
  然者 吾與汝 行廻逢 是天之御柱
  めぐ
4連続も。・・・
  尋覓上往 者 老夫與老女二人在
  たづもとのぼ
さらには5連続。・・・
  於是 飮酔留伏寢
  とどまり

(この様な用法は話語の原初的な表現が保たれている気がする。英語の様なSV構造語では、SVVは禁じ手で、"-ing/to 〜"に変換することになるが、意味が固定化させられる。一方で、強調したい場合は"do"を入れることができるのだから、実はVVはあり得る表現。実際、世俗的会話ではVVは珍しい訳ではなく、動詞間の"and"を省略した意味で用いられている。)

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