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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.5] ■■■
🪞[850]参考「水鏡」[31代 32〜35代天皇]
 【第卅一代】欽明天皇
〈二十二年崩。年八十。葬大和國檜隈坂合陵。〉
次の帝、欽明天皇と申しき。
 安閑天皇の御兄〈弟歟〉。
 御母、皇后手白香なり。
 癸亥の年くらゐにつき給ふ。
 世を治りたまふこと十三年。
十三年と申ししに、百濟國より、佛經渡り給へりき。帝、喜び給ひて、これを崇め給ひしに、世の中の心地起こりて人多く患ひき。
尾興の大連といひし人、
 「佛法を崇むる故に、この病起るなるべし。」
と申して、寺を燒き失ひしかば、空に雲なくして雨降り、內裏焼け、かの大連亡せにき。
この後、さまざまの佛經、猶。渡り給ひき。繼體天皇の御世に唐土より人渡て、佛を持し奉りて崇め行ひしかども、その時の人、唐土の神と名づけて、佛とも知り奉らず。又、世の中にも広まり給はずなりにき。この御世よりぞ、世の人、佛法といふ事は知り初め侍りし。

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三十三年と申ししに、
聖コ太子は孕まれ給ひき。御父の用明天皇は、この帝の第四の御子と申ししなり。
太子の御母の御夢に金の色したる僧の、
 「われ、世を救ふ願あり。しばらく君が腹に宿らむ。」
との給ひしかば、
御母、
 「かくのたまふは誰にかおはする。」
と申し給ひき。
その僧、
 「われは救世菩薩なり。家はこれより西の方にあり。」
とのたまひき。
御母申したまはく、
 「我が身は穢らはし。いかでか宿り給はむ。」
とのたまふに、
この僧、
 「穢らはしきを厭はず。」
とのたまひしに、
 「しからば。」
と許し奉り給ひしに從ひて、母の御口に躍り入り給ふと思して、驚き給ひたりしに、御喉に物ある心地し給ひて孕み給へりしなり。
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八月と申ししに、腹の內にて、もののたまふ聞え侍りき。この頃ほひに、宇佐の宮は顯れ始めおはしましき。よしなき事に侍れども、この御時とぞおぼえ侍る、野干を"きつね"と申し侍りしは。
事の起りは、美濃國に侍りし人、顏よき妻を求むとてものへまかりしに、野中に女に会ひ侍りにき。
この男、語らひ寄りて、
 「我が妻になりなむや。」
と言ひき。
この女、
 「いかにも、のたまはむに從ふべし。」
と言ひしかば、相具して家に歸りて住む程に、男子一人産みてき。
かくて年月を過すに、家にある犬、十二月十五日に子を産みてき。その犬の子、すこし大人びて、この妻の女を見る度毎に吠えしかば、
かの妻の女、いみじくおぢて、男に、
 「これ打ち殺してよ。」
と言うしかども、夫の男聞かざりき。
この妻の女、米白ぐる女どもに物食はせむとて、唐臼の屋に入りにき。その時、この犬走り来て、妻の女を食はむとす。この妻の女、驚き恐れて、え堪へずして、野干になりて籬の上に登りてをり。
男これを見て、あさましと思ひながらいはく。
 「汝と我とが中に子既にいできにたり。我、汝を忘るべからず。常に来て寢よ。」
と言ひしかば、その後、来たりて寢侍りき。さて、"きつね"とは申し初めしなり。その妻は桃の花染の裳をなむ着て侍りし。その産みたりし子をば"きつ"とぞ申しし。力強くして走る事飛ぶ鳥の如く侍りき。


卷中
 【第卅二代】敏達天皇
〈十四年崩。年二十四。葬河內國長職中屋陵。〉
次の帝、敏達天皇と申しき。
 欽明天皇の第二の御子。
 御母、宣化天皇の御女石姬の皇后なり。
 欽明天皇の御世十五年甲戌正月に東宮に立ち給ふ。
 壬辰の年四月三日位に即き給ふ。
 世を治り給ふ事十四年なり。

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今年正月一日ぞ、
聖コ太子は生れ給ひし。父の用明天皇は帝の御弟にて、いまだ皇子と申ししなり。御母宮の內を遊びありかせ給ひしに、厩の前にて御心にいささかも覺えさせ給ふ事もなくて、俄に生れさせ給ひしなり。この月までは十二ヶ月にぞ当たらせ給ひし。人々急き抱きとり奉りてき。かくて、赤く黄なる光西の方よりさして、御殿の內を照らしき。帝この由を聞し召して、行幸なりて、事の有様を問ひ申し給ふに、又、ありつるやうに宮の內光さして輝けり。
帝あさましと思して、
 「ただ人には坐すまじき人なり。」
とぞ、人々にはのたまはせし。
四月になりにしかば、物などいとよくのたまひき。
今年の五月とぞ、おぼえ侍る。高麗より鳥の羽にものを書きて奉りたりしを、いかにして讀むべしとも覺えぬ事にて侍りしを、なにがしの王とかや申しし人の、こしきの內に置きて、写しとりて讀みたりしこそいみじきことにて侍りしか。帝、愛でほめ給ひて、その王は御前近く常に侍ふべき由など仰せられき。
二年と申す二月十五日、聖コ太子東に向ひて掌をあはせて、
 「南無佛。」
とのたまひき。御年二つにこそはなり給ひしか。
三年三月三日、父の皇子、聖コ太子を愛し奉りて抱き給へりしに。いみじく香ばしくおはしき。その後、多くの月日を過ぐるまで、その移り香失せ給はざりしかば、宮の內の女房たち、われもわれもと爭ひい抱き奉り侍りき。
六年十月と申ししに、百濟國より經論、又、あまた渡り給へりしを、
太子、
 「これを見侍らむ。」
と帝に申し給ひしかば、帝その故を問ひ給ひ、
太子申し給はく、
 「昔、唐土の衡山に侍りしに、佛ヘは見給へりき。今その經論を奉りて侍るなれば、見給へらむと思ひ給ふるなり。」
と申し給ひしかば、
帝あさましと思し召して、
 「汝は六歲になり給ふ。いつの程に唐土に在りしとはのたまふぞ。」
と仰事ありしかば、
太子、
 「前の世の事の覚え侍るを申すなり。」
と申し給ひし時に、帝をはじめ奉りて、聞く人、手をうち、あざみ申しき。
法華經は今年渡り給へりけるとぞ承りし。
七年と申しし二月に、
太子よろづの經論を披き見給ひて、
 「六齋日は梵天帝釋降り下り給ひて、國の政を見給ふ日なり。ものの命を殺す事を止め給へ。」
と申し給ひしかば、宣旨を下し給ひき。今年太子七歲にぞなり給ひし。
八年と申しし十月に、新羅より釋迦佛を渡し奉りしかば、帝、スび給ひて供養し奉りき。山階寺の東金堂におはしますはこの佛なり。
十二年と申しし七月に、百濟國より日羅といふ人來れりき。太子会ひ給ひて物語をし給ひしほどに、
日羅、身より光を放ちて、太子を拜み奉るとて、
 「敬禮救世觀世音傳燈東方粟散王。」
と申しき。太子、又、眉間より光を放ち給ひき。
かくて、人々にのたまひき、
 「我、昔、唐土にありし時、日羅は弟子にてありしものなり。常に日を拜み奉りしによりて、かく身より光を出すなり。後の世に必ず天に生るべし。」
とのたまひき。
十三年と申しし九月に、百濟國より石にて造りたる彌勒を渡し奉りたりしを、蘇我馬子の大臣、堂を造りて据ゑ奉りき。今、元興寺におはします佛なり。
十四年と申しし三月に、
守屋の大臣帝に申さく、
 「先帝の御時より今に至るまで、世の中の病いまだをこたらず。蘇我の大臣、佛法を行ふ故なるべし。」
と申ししかば、佛法を失ふべき由、宣旨下りにき。守屋みづから寺に行き向ひて、堂を切り倒し、佛像を破り失ひ、火をつけて燒き、尼の着る物を剥ぎ、笞をもちて打ちし程に、空に雲なくして大きに雨降り風吹きき。帝も守屋も、忽に、瘡を患ひ、天下に瘡おこりて命を失ふもの數をしらず。その瘡を病む人、身を焼き切るが如くになむ覚えける。佛像を燒きし罪によりてこの病起れりしなり。
六月に、蘇我の大臣、
 「病久しく癒えず。猶、三寳を仰ぎ奉らむ。」
と申しき。
帝、
 「しからば、汝ひとり行ふべし。」
とのたまはせしかば、喜びて、又、堂塔をつくりき。佛法はこれよりやうやう弘まり始まりしなり。

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かくて、八月十五日に、帝は亡せさせ給ひにき。
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この御時とぞ覚え侍る。
尾張の國に田を作るものありき。夏になりて、田に水まかせむとせし程に、俄に神鳴り雨降りしかば、木の下に立ち入りてありし程に、その前に雷落ちにき。その形、幼き子のごとし。
この男、鋤をもちて打たむとせしかば、雷、
 「我を殺すことなかれ。必ずこの恩を報いむ。」
と言ひき。
男のいはく、
 「何事にて恩を報ゆべきぞ。」
と言ひき。
雷答へていはく、
 「汝に子を設けさせて、かれにて恩を報いむ。我に、楠の木の船を造りて、水を入れて竹の葉を浮かべて速に與へよ。」
と言ひしかば、この男、雷の言ふが如くにして與へつ。
雷これを得て、即ち、空へのぼりにき。その後、男、子を設けてき。生れし時に、蛇、その首を纏ひて、尾頭項の方にさがれりき。力、世にすぐれたり。年十餘になりて、方八尺の石をやすく投げき。この童は元興寺の僧に仕へしほどに、その寺の鐘撞堂に鬼ありて、夜毎に鐘撞く人を食ひ殺すを、
この童、
 「鬼の人を殺す事を止めてむ。」
と言ひしかば、寺の僧どもスびて、速に留むべき由をすすめき。
その夜になりて、童鐘撞堂に上りて鐘を打つ程に、例の如く鬼来たれり。童、鬼の髮にとりつきぬ。鬼は外へ引き出さむとし、童は內へ引き入れむとする程に、夜ただ明けに明けなむとす。鬼し侘びて、髪際を放ち落して逃げさりぬ。夜明けて、血を尋ねて求め侍りしかば、その寺の傍なる塚のもとにてなむ血止まり侍りにし。昔、心惡かりし人を埋めりし所なり。その人、鬼になりたりけるとぞ、人々申しあひたりし。その後、鬼、人を殺す事侍らざりき。鬼の髮は寶藏にをさめて、いまだ侍るめり。この童、男になりて、なほこの寺に侍りき。寺の田を作りて水をまかせむとせしに、人々妨げて水を入れさせざりしかば、十餘人ばかりして擔ひつべき程の鋤柄を作りて、水口に立てたりしを、人々抜きて捨てたりしかば、この男、又、五百人して引く石をとりて、こと人の田の水口に置きて、水を寺田に入れしかば、人々怖ぢ恐れてその水口を塞がずなりにき。かくて寺田焼くることなかりしかば、寺の僧、この男法師になる事を許してき。世の人、
道塲法師とぞ申しし。

 【第卅三代】用明天皇
〈二年崩。葬大和國磐餘池上陵。〉
次の帝、用明天皇と申しき。
 欽明天皇の第四の御子。
 御母、大臣蘇我宿禰稻目の女妃堅鹽姬。
 乙巳の年九月五日位に即き給ふ。
 世を治り給ふ事二年。

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位に即き給ひて明くる年、
聖コ太子、父 帝を相し奉りて、
 「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。政事をよくすなほにし給ふべし。」
と申し給ひき。
かくて、次の年の四月に、父 帝、御心地例ならずおはせしに、太子夜晝附きそひ奉りて。聲絶えもせず祈り奉り給ひき。
帝、
 「大臣以下三寶を崇め奉らむ。いかがあるべき。」
と仰せられあはせ給ひしに、
守屋は、
 「あるべき事にも侍らず。我が國の神を背きて、いかでか異國の神をば崇むべき。」
と申しき。
蘇我の大臣は、
 「唯、仰せ事に従ひて崇め奉らむ。」
と申しき。
帝、蘇我の大臣の言に從ひ給ひて、法師を內裏へ召し入れられしかば、太子、大きに喜び給ひて、
蘇我の大臣の手をとり、涙を流し、
 「三寳の妙理を人知ることなくして、みだりがはしく用ゐ奉らざるに、大臣、佛法を信じ奉るいといとかしこき事なり。」
とのたまひしを、守屋、大きに怒りて、腹立ちにき。
太子、人々にのたまはく、
 「守屋因果を知らずして、今、滅びなむとす。悲しきことなり。」
とのたまひしを、人ありて、守屋に告げ聞かせしかば、守屋いとど怒りをなして、兵を集め、様々の蠱業どもをしき。
この事聞えて、太子の舍人を遣して、守屋に片寄れる人々を殺させ給ひしほどに、四月九日、帝亡せさせ給ひにき。
七月になりて、太子、かの大臣もろともに軍を起して、守屋と戰ひたまふ。守屋が方の軍數を知らざりしかば、太子の御方の軍怖ぢ恐れて、三度までも退きかへりき。
その時に太子大誓願を起こし、白膠の木をとりて四天王を刻み奉りて、頂の上に置き奉りて、
 「今、放つ所の矢は四天王の放ち給ふところなり。」
とのたまはせて、舍人をして射させしめ給ひしかば、その矢、守屋が胸に当たりて立所に命を失ひつ。
秦河勝をして首を斬らしめたまふ。守屋が妹は蘇我の大臣の妻にて侍りしかば、その妻の謀にて、守屋は討ちとられぬるなりとぞ、その時の人は申しあへりし。さてこの守屋を射殺して侍りし舍人をば、赤擣とぞ申し侍りし。水田一萬頃をなむ賜はせし。かくて、今年、天王寺をば造り始められしなり。


 【第卅四代】崇峻天皇
〈五年崩。年七十二。葬大和國倉橋山岡陵。〉
次の帝、崇峻天皇と申しき。
 欽明天皇の第十二の御子。
 御母、稻目大臣の女小姉君姬なり。
 丁未の年八月二日位に即き給ふ。御年六十七。
 世を治り給ふ事五年。

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位に即き給ひて、明くる年の冬、帝、
聖コ太子を呼び奉りて、
 「汝よく人を相す。われを相し給へ。」
とのたまひしかば、
太子、
 「めでたくおはします。ただしざまに御命の危みなむ見えさせおはします。心知らざらむ人を宮の中へ入れさせ給ふまじきなり。」
と申し給ひしかば、
帝、
 「いかなる所を見てのたまふぞ。」
とおほせられしに、
太子、
 「赤き筋、御眼を貫ぬけり。これは傷害の相なり。」
と申し給ひしかば、帝、御鏡にて見給ひしに、申し給ふ如くにおはしまししかば、大に驚きおそりおはしましき。
かくて、太子人々に、
 「帝の御相は、前の世の御事なれば、変るべき御事にあらず。」
とぞ、のたまひし。
三年と申しし十一月に、太子御年十九にて元服したまひき。

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五年と申しし二月に、帝、忍びやかに太子にのたまはく、
 「蘇我の大臣、內には私をほしきままにし、外には偽り飾り、佛法を崇むるやうなれども、心正しからず。いかがすべき。」
とのたまひしかば、
太子、
 「唯、この事を忍び給ふべし。」
と申し給ひしほどに、
十月に人の猪を奉りたりしを、帝御覧じて、
 「いつか猪の首を斬るが如くに、わが嫌ふ所の人を断ち失ふべき。」
とのたまはせしかば、
太子、大に驚き給ひて、
 「世の中の大事、この御詞によりてぞ出で来べき。」
とて俄に內宴を行なひて、
人々に祿賜はせなどして、
 「今日、帝ののたまはせつる事、ゆめゆめ散らすな。」
と語らひ給ひしを、
誰か言ひけむ、蘇我の大臣に、
 「帝かかる事をなむのたまひつる。」
と語りければ、わが身をのたまふにこそと思ひて、帝を失ひ奉らむと謀りて、東漢駒といふ人を語らひて、十一月三日帝を失ひ奉りき。
宮の中の人、驚き騒ぎしを、蘇我の大臣、その人を捕へさせしめしかば、人々この大臣のしわざにこそと知りて、とかくものいふ人なかりき。大臣駒を賞して様々の物を賜はせて、我が家の中に、女房などの中にも憚りなく出で入り、心に任せてせさせし程に、大臣の女を忍びて犯しき。大臣この事を聞きて大きに怒りて、髮をとりて木に掛けて、自らこれを射き。
 「汝おろかなる心をもちて、帝を失ひ奉る。」
と言ひて矢を放ちしかば、
駒叫びて。
 「われその時に、大臣のみを知れりき。帝といふことを知り奉らず。」
と言うしかば、大臣この時いよいよ怒りて、劍をとりて腹を割き、頭を斬りてき。大臣の心惡しきこといよいよ世間にひろまりしなり。


 【第卅五代】推古天皇
〈三十六年崩。年七十三。葬磯長山田陵。〉
次の帝、推古天皇と申しき。
 欽明天皇の御女。
 御母、稻目大臣の女蘇我小姉君姬なり。
 壬子の年十二月八日位に即き給ふ。御年三十八。
 世をしろしめす事三十六年。

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位に即き給ひて明くる年の四月に、
帝、
 「我が身は女人なり。心にものをさとらず。世の政事は
聖コ太子にし給へ。」
と申し給ひしかば、世の人喜びをなしてき。
太子はこの時に、太子には立ち給ひて、世の政事をし給ひしなり。その前は、ただ皇子と申ししかども、今、語り申す事なれば、さきざきも太子とは申し侍りつるなり。御年廿二になむなり給ひし。今年、四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。元は玉造りの岸に立て給へりき。
三年と申しし春、沉はこの國に始めて浪につきて來れりしなり。土佐國の南の海に、夜毎に大に光る物ありき。その聲雷の如くにして、卅日を經て、四月に淡路の島の南の岸に寄り來たれり。大さ人の抱くほどにて、長さ八尺餘ばかりなむ侍りし。その香ばしき事譬へむ方なくめでたし。これを帝に奉りき。島人何とも知らず、多く薪になむしける。
これを太子見給ひて、
 「沉水香と申すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸に生ひたり。この木、のひややかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの虵まとひつけり。その時に、人かの所へ行き向かひて、その木に矢を射立たてて、冬になりて、虵の穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。その實は鷄舌香、その花は丁子、その油は棊、、久しくなりたるを沉水香といふ。久しからぬを淺香といふ。帝、佛法を崇め給ふが故に、釋梵、威コの浮べ送り給ふなるべし。」
と申し給ひき。
帝、この木にて觀音を作りて、比蘇寺になむ置き奉り給ひし。時々光を放ち給ひき。
六年と申しし四月に、太子、良き馬を求めしめ給ひしに、甲斐の國よりKき馬の四つの足白きを奉りき。太子多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乘り給ひて、雲の中に入りて、東をさしておはしき。麻呂といふ人ひとりぞ御馬の右の方にとりつきて、雲に入りにしかば、見る人驚きあざみ侍りしほどに、
三日ありて歸り給ひて、
 「われ、この馬に乘りて、富士の嶽に至りて、信濃の國へ傳はりて歸り來たれり。」
とのたまひき。
十一年と申しし十一月に、
太子の持ち給へりし佛像を、
 「この佛、誰か崇め奉るべき。」
とのたまひしに、秦の河勝進み出でて。申しうけ侍りしかば、賜はせたりしを、蜂岡寺を造りて、据ゑ奉りき。その蜂岡寺と申すは今の太秦なり。佛は彌勒とぞ承り侍りし。
十四年と申しし七月に、帝、
 「わが前にて勝鬘經講じ給へ。」
と申し給ひしかば、太子、師子の床に上りて三日講じ給ひき。
その有様、僧の如くになむおはせし。めでたかりし事なり。翁、その庭に聽聞して侍りき。果ての夜とぞ覺え侍る。蓮の花の長さ二三尺ばかりなる、空より降りたりし、あさましかりし事ぞかし。帝、その所に、寺を建て給ひき。今の橘寺これなり。
十五年と申しし五月に、帝に申し給はく、
 「昔。持ち奉りし經、唐土の衡山と申す所におはします。取り寄せ奉りて、この渡れる經のひが事の侍るに見合せむ。」
と申し給ひて、小野の妹子を、七月に、唐土へ遣はしき。
明くる年の四月に、妹子、一卷にしたる法華經をもて來れりき。
九月に、太子、斑鳩の宮の夢殿に入り給ひて、七日七夜出で給はず。八日といふ朝に御枕上に一卷の經あり。
太子のたまはく、
 「この經なむ我が前の世に持し奉りし經にておはします。妹子がもて來れるは、我が弟子の經なり。この經に三十四の文字あり。世の中に広まる經はこの文字なし。」
となむのたまひし。
廿九年二月廿二日、太子亡せ給ひにき。御年四十九なり。
帝を始め奉りて、一天下の人父母を失ひたるがごとくに悲しびをなしき。大かた太子の御事、萬が一を申し侍り。事新しくも申し續くべくもなけれども、めでたき事は、皆人知り給へれども、繰り返し申さるるなり。太子世に出で給はざらましかば、暗きより暗きに入りて、永く佛法の名字を聞かぬ身にてぞあらまし。天竺より唐土に佛法傳りて三百年と申ししに、百濟國に傳りて、百年ありてぞ、この國へ渡り給へりし。その時、太子の御力にあらざりせば、守屋が邪見にぞ、この國の人は従ひ侍らまし。

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三十四年と申す六月に大雪降りて侍りき。


 【第卅六代〜第四十七代】
舒明天皇⇒皇極天皇⇒孝コ天皇〈大化五白雉五〉⇒齊明天皇⇒天智天皇⇒天武天皇〈朱雀一朱鳥一白鳳十三〉⇒持統天皇〈朱鳥八大寶二〉⇒文武天皇〈大寶三慶雲四〉⇒元明天皇〈和銅七〉⇒元正天皇〈靈龜二養老七〉⇒聖武天皇〈神龜五天平廿〉⇒孝謙天皇〈天平勝寶八天平寶字二〉

卷下
 【第四十八代〜第五十五代】
廢帝〈天平寶字六〉⇒稱コ天皇〈天平神護二神護慶雲三〉⇒光仁天皇〈寶龜十一天應一〉⇒桓武天皇〈延曆廿四〉⇒平城天皇〈大同四〉⇒嵯峨天皇〈弘仁十四〉⇒淳和天皇〈天長十〉⇒仁明天皇〈承和十四嘉祥三〉

   序・初代〜16代天皇 17代〜30代天皇


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