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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.6] ■■■
[851]読み方[21]
「水鏡」の一瞥をお勧めしているのは、「古事記」に触れていると、それなりの気付きが得られるから。
その1つ目。・・・

「水鏡」は国史の様に編年的記載になってはいるものの、臣下の列伝を欠くだけで、紀伝的に天皇段を順に並べて皇統譜を示すだけの構成であるとも言えよう。各段の記述内容は薄く簡素というに過ぎず、「古事記」と設計上でたいした違いがあるようには思えない。
しかし、後から付いているのだろうが、頭注があるので、皇統譜上、どの様な情報を重視しているかに気付かされることになる。「古事記」では、各天皇段末に記載されているが、もちろん、不完全な場合も少なくない。
 e.g. 神武天皇〈七十六年三月甲辰日崩。年百廿七。九月丙寅日葬大和國畝火山東北陵。〉
   📖崩御年記載有無が意味する状況

皇統譜を時間軸で眺めれば、その切れ目は即位年ではなく、崩御年であることになる。考えてみれば、継承に当たっては、皇位争奪を招く空位期間がある筈で、それを厳密に示そうとしても徒労に終わること間違いなしだから、当然のこと。そもそも、即位しているかについての見方も割れている訳だし。(「水鏡」は、立太子によろ継承システムが基本形としているようだが、「古事記」は異なる。初期はおそらく、持ち廻りで、その後は3太子併存という訳のわからぬ状況に陥ったりしており、廃太子があったりして、天皇による立太子制度が機能していた様には描かれていない。)

しかし、いかにも重要そうな数字なのに、「水鏡」(「扶桑略記」抜粋本とされている。) 、「古事記」、国史(「日本書紀」)の数字は、以下の様に、一致しないことも多い。
------崩御年齢(宝算)-----
---孝霊天皇/大倭根子日子賦斗邇命
 【水鏡__】134歳
 【扶桑略記】110歳
 【古事記_】106歳
 【日本書紀】 n.a.
 【帝皇系図】128歳

---崇神天皇/御眞木入日子印惠命
 【水鏡__】119歳
 【扶桑略記】120歳
 【古事記_】168歳
 【日本書紀】120歳
 【帝皇系図】119歳

---景行天皇/大帶日子淤斯呂和氣天皇
 【水鏡__】143歳
 【扶桑略記】106歳
 【古事記_】137歳
 【日本書紀】106歳
 【帝皇系図】143歳

---成務天皇/若帶日子天皇
 【水鏡__】109歳
 【扶桑略記】107歳
 【古事記_】_95歳
 【日本書紀】107歳
 【帝皇系図】107歳

---清寧天皇/白髮大倭根子命
 【水鏡__】_41歳
 【扶桑略記】_39歳
 【古事記_】 n.a.
 【日本書紀】 若干
 【帝皇系図】_41歳

---顕宗天皇/袁祁之石巣別命
 【水鏡__】_38歳
 【扶桑略記】_46歳
 【古事記_】_38歳
 【日本書紀】 n.a.
 【帝皇系図】_48歳

---宣化天皇/建小広国押楯命
 【水鏡__】_72歳
 【扶桑略記】_72歳
 【古事記_】 n.a.
 【日本書紀】_73歳
 【帝皇系図】_73歳

---推古天皇/建小広国押楯命
 【水鏡__】_73歳
 【扶桑略記】_73歳
 【古事記_】 n.a.
 【日本書紀】_75歳
 【帝皇系図】_75歳


普通に考えれば、崩御年齢を記録する習慣が定着しておらず、数字が伝承されていない場合も多かった、となろう。上記の状況からすると、崩御年齢は、立太子や即位の暦年・年齢等の数値から算出した可能性が高そう。(「古事記」では、即位年は崩御年から統治期間を引くことでわかるが、伝承数値は逆なのだろう。)

後世成立の「水鏡」が元ネタとしている書の崩御年齢をママ引用しないのは、そこになんらかの矛盾を見つけ、算定し直したと考えるのが自然だろう。

「古事記」は、その辺りを踏まえて数字を記載しているように思える。


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