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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.26] ■■■
[870]読み方[40]
「古事記」に於ける"物部"の取り上げ方は極めて限定的である。
朝臣の筈の物部氏は、姓として連を得ている程度はわかるものの、日本史教育で得たイメージは全く湧いてこない。饒速日命が祖なので、初代天皇以前の大和国山辺郡・河内国渋川郡辺りの豪族らしさは感じさせるものの。
   📖物部氏軽視は徹底している
邇藝速日命參赴白 於天神御子:「聞天神御子天降坐」 故 邇藝速日命 娶 登美毘古登美夜毘賣 生子 宇摩志麻遅命 【此者物部連穗積臣婇臣祖也】

しかしながら、竺紫君石井譚で、≪遣物部荒甲大連 大伴之金村連 二人≫として登場するから、この時点では、皇位継承に力を発揮していそうな、朝廷の有力軍事勢力だったことが明らかにされている。

武器庫的(作 横刀壹仟口 是 奉納石上神宮)でもあり、レガリアも祀られている石上神宮の祭祀者が"物部"勢力であることを伺わせる記述も見つからない。
もともと"物部"という用語自体が、下記の用例でわかるように、氏と云うより、"もののふ"という意味だから、この調子だと、石上神宮は戦乱勝利の呪術的祭祀場としての、"もののふ"の地ということと考えてしまいかねない。
   (爾 遂兄儛訖次弟將儛時
   為 詠曰:「物部之我夫子之取佩 於大刀之手上 丹畫著 其試メ載赤幡・・・)

というか、天皇・皇子直属の武的呪術を駆使する親衛の"部民"が石上神宮で祭祀を担当しているだけ、との見方が提起されているとも思えてくる。(部民としてまとまった氏族を形成するのではなく、枝族として広範に広がって行ったのかも。)

もちろん、"物部"が超有名な理由は、仏教国化メルクマールとしての、ドラマチックな≪廃仏派物部守屋 v.s. 崇仏派蘇我馬子+厩戸皇子の戦い≫。
ところが、「古事記」では事績不記載年代に当たるので、戦乱発生の有無さえ全くわからない。どうして、これほど重要な戦乱を不記載で済ますのか理解しがたいところ。
当然ながら、不記載なので、「古事記」は何の参考にもならないと思いがち。それは、おそらく、逆。・・・
この対立とは、実は、継体天皇期(地方独立阻止)から始まり推古天皇代初期に完了した≪国家体制変革の流れ≫の1つの出来事に過ぎない、と主張していると捉えることもできるからだ。

つまり、単純に廃仏 v.s. 崇仏抗争と見なしたり、従来型の2つの勢力間の皇位継承抗争と考えたのでは、本質を見失し無いかねまい、との太安万侶流忠告と考える訳。
(国史なら、この期間は、新羅・百済・倭三つ巴の角逐の詳細記録を最優先せざるを得ない筈。しかし、常識で考えれば、半島権益喪失過程をママ大失敗として描く官僚などおよそあり得まい。従って、その内容はママ受け取らない方がよいのでは。百済仏教云々は、宗教問題というより対半島方針の先鋭的対立の可能性が高いことになろう。崇仏と称しながら、その一方で新羅仏教一切排除でもあるし。)

「水鏡」対応部(初〜35代天皇)には、聖徳太子譚として、この乱が記載されることになるが、この箇所を含めて"物部"という氏の名前は登場してこない。
物部氏の拠点とされる地名の石上についても、軍事勢力たる"物部"を感じさせる記述にはなっていない。
  ○神代より傳はりて、劔 三つあり。
   一つは石上布留の社にます。・・・
   「古事記」:可降是刀
      【此刀名云佐士布都神亦名云甕布都神亦名云布都御魂 此刀者坐石上神宮也】

  ○【第十八代】履中天皇 石上の宮に坐し・・・
   「古事記」:故 上幸坐 石上神宮也・・・・・故 參出 石上神宮令奏天皇

これを見る限り、「古事記」同様に、"物部"勢力はさいたる関心対象ではないようだ。それは反仏教観点からの排除ではないだろう。

ここらの問題をほじくるつもりは更々ないが、太安万侶的な見方で背景を説明しておこう。

物部勢力は、もともとが"王"の祭祀担当部民兼親衛隊皇位継承に係る力を持っていた土着の葛城、平群、等々とは性格が違っているからこそ、こうした取り上げ方になるのでは。邇藝速日命の祭祀親衛隊だったが、渡来大王伊波禮毘古が登場すれば、その傘下に入ることにもやぶさかではないという姿勢を見せる訳で、そうなれば両者丸ごと新覇権者の一部に取り込まれることになる。

盆地侵出に当たっては、従わぬ勢力に対しては土蜘蛛と揶揄した上で手段を厭わず完全抹殺する姿勢を見せつけ、連合体制を欠く各地の勢力をサラミ的に次々と従属化させたのだろう。その最後に残ったのが、磐余から一番遠い地の勢力、登美毘古で、すでに流れは決していたということ。

「古事記」の❶~倭伊波禮毘古命の大和地区平定の様子は超簡略版であるものの、盆地征服過程は概ね想像できる様になっているので、そう考える訳だが。
 @吉野
 ↓
 @宇陀
 ↓
 @桜井(忍坂大室)…拔刀一時打殺生尾土雲八十建
 ↓
 @磯城…撃 兄-師木
 ↓
 ○
 ↓
 @鳥見(富雄川)…撃 登美毘古
 ↓
 ○  …邇藝速日命[妻:登美夜毘売] 参

この簡略化は恣意的表記と言うより、平定したといっても、天皇による統一王朝樹立というのではなく、天皇を祭祀的元首とする緩い連合王朝がつくられただけだから、盆地征服の詳しいステップがある筈も無いということ。
従って、登美毘古討伐での最終的勝利が結節点と見がちだが、「古事記」からすれば、それが最終的戦闘とは言えるものの、すでに大勢は決しており、意味的には一部の土着勢力が起こした一時的叛乱となんら変わりないということになろう。・・・東征ハイライトシーンの≪金鵄≫を掲げる国史との見方の違いは小さなものではなさそう。
  皇師遂撃長髄彦 連戰不能取勝
  時忽然 天陰而雨氷 乃 有金色靈鵄 飛來止于皇弓之弭
  其鵄光曄U 状如流電
  由是 長髄彦軍卒皆迷眩 不復力戰
  [「日本書紀」

「古事記」流でこの戦いを総括するなら、五瀬命は、地勢を考慮した熟達の射矢戦に、盾で対応して敗れたが、伊波禮毘古命は刀の力で勝ったとなるのと違うか。すでに、葛城も石上も勢力圏内に治め、連合軍で対峙できる様になったのだから、海河域で戦った時のパワーバランスとは大違い。
尚、「古事記」では、邇藝速日命は伊波禮毘古命より先に入っていたとは書いていない。そこらは注意した方がよさそう。登美毘古が伊波禮毘古命対応で、後からの到来者を入り婿にした可能性もある訳で。ここらはなんとも言い難し。
要は、庇護勢力が敗れてしまい、親衛隊も伊波禮毘古命防衛に就いているので、邇藝速日命は祭祀権を放棄することになったと、記述しているに過ぎない。しかし、その結果、石上祭祀場の運営を任されたというストーリーかも。

【補足:地理的見方】
初代天皇時代は、おそらく、大和盆地中央部は葦が繁茂する浅い湖だった筈。
その南東端 が桜井。
 ここから初瀬川沿いに山麓西沿いに北上すれば三輪〜石上で湖側が磯城。
  さらに北上すれば、佐保川枝流域でその南端が和邇の地域。
 一方、東へ進めば、天香久山〜畝部〜曽我〜葛城。
その後、氾濫の度の土砂鯛世辞で湖は埋まってしまい、 これらの地域の川は大和川支流と化す。
 この湖からの出流域が平群で、流口に近いのが北側の龍田川と富雄川。



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