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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.7] ■■■
[402]物部氏軽視は徹底している
太安万侶は物部氏についての関心が極めて薄い。
思うに、現代で言えば治安警察的な組織に映ったからではあるまいか。 📖物部氏の出自が"謎"とは思えない

義務教育で必ず覚えさせられる氏だが、「古事記」には僅か3ヶ所に記載されるのみ。・・・
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最初は、《東征段》である。
 故爾 邇藝速日命 參赴
 白於天神御子:
 「聞 天神御子天降坐
  故 追參降來
  即 獻天津瑞以 仕奉也」
 故
 邇藝速日命娶 登美毘古之妹 登美夜毘賣
 生子 宇摩志麻遲命
  <此者
物部連 穗積臣 婇臣 祖也>
邇藝速日命は、皇孫勢力の優位性が確立したのを見計らって、後からやってきて取り入ったかのように映る。中華帝国的視点なら、これで以後朝廷に影響力を確保できたのだから、策士として大いに評価されて当然となるが、倭では後出しのズルとされかねまい。
少なくとも、登場に何らの意義も感じさせないのは確かであり、どのような気分でこのパートが書かれたのかは定かではない。

次が、《白髮大倭根子命/清寧天皇段》。
 爾 遂 兄儛訖
 次 弟將儛時
 爲詠曰:
  
物部之我夫子之
  取佩於大刀之手上丹畫著其緒者 載赤幡
  立赤幡・・・
  ・・・伊邪本和氣天皇之御子 市邊之押齒王之奴末

父を殺害されて、逃亡隠遁していた兄弟が身分を明かすシーンだが、ここでの物部は"武人[もののふ]という読みとし、氏族の意味はないと解釈するようだ。もう一つわかりにくいのは夫子だ。漢語なら賢者的な意味のフウシだが、倭語は夫子[せこ]。男同士で用いることもできるが、夫婦的に女性が親しい男性を呼ぶ言葉として使われることが多い。歌詠み者は袁祁王であるから、我が父との意味としてしまうが、それでよいのかはなんとも言い難し。
小楯連はこれを耳にして仰天した訳で、逃避行中の市邊之押齒王遺児兄弟に偶然遭遇してだけではないのでは。

「赤幡を見て山の尾根に隠れたものの、竹を刈り取った。」と言う、とんでもなく先鋭的な暗喩を含んでおり、それはまさに王権問題を語る言葉だったので、ビックリ仰天したと考えた方がよさそうだ。大長谷若建命が潜在的敵対者すべてを葬り去った動きは、物部氏あってこそということを示している可能性があろう。リスクを思料すれば、そのような話を表だって書けるとはとうてい思えないから、ここでの歌は一部語彙が換えられていておかしくない。

そして、3ッ目が《袁本杼命/繼體天皇段》。
下巻末の、意祁命(袁祁命の兄)/[24]仁賢天皇段〜豊御食炊屋比売命/[33]推古天皇段は、宮名記載の後に崩御年と御陵を示してから、系譜を書いているだけだが、ここだけは例外。・・・
📖 [私説]竺紫君石井の分派活動終焉
 此御世 竺紫君石井 不從天皇之命
 而 多无禮
 故 遣
物部荒甲之大連 大伴之金村連 二人 而 殺石井也
小生の感覚では、ここはことの他重要で、物部・大伴という、古くからの武人勢力の最期の出番ということになる。物部は公安警察的な役割を担ってきたので、中央に於ける騒動での武力行使には長けているものの、軍事組織とは異なる体制なので内戦には向かない。しかし、竺紫君石井は反天皇姿勢が露わであるものの、地域連合体制構築の力量を欠いていると見て、派遣されたのであろう。
わざわざ、例外的にそのような話を挿入しているのは、まさに慧眼といえよう。常識的に考えて、皇統断絶の危機に遭遇したということは、儒教国の発想なら、大和王朝に対抗する地方王朝が生まれかねないことを意味している訳で、石井殺害はそのような流れの存在を示唆しているに違いないからだ。

このことは、中央と地方の二重構造が成り立たなくなることでもある。中央に於ける、皇位継承騒にからむ公安的武力の出番は無くなって行くことになろう。
ただ、それはあくまでも太安万侶流の考え方。現代においても、物部氏の重要性を暗記させられることになっているのだから。
その辺りは、「古事記」と国史の違いでもあろう。「記紀」読みをしないので、そこらはよくわからないが、"宿祢"を取り上げて📖知ったのだが、《男淺津間若子宿禰命/允恭天皇段》の皇子逃げ込み譚(歌謡の歌物語化)での大前小前宿禰は国史等ではわざわざ物部氏と記載されているらしい。さもありなん。

・・・どう考えても、太安万侶は物部氏軽視を決め込んでいる。

石上神宮が物部氏が祭祀を担当していたのは確実らしいから、どうしてそのような姿勢なのかわかりにくいところがある。
<石上神宮>についても記載は限定的と言ってよさそうだし。・・・
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よく知られるのは、もちろん《東征段》である。
 此刀名 云佐士布都神 亦名云甕布都
 神 亦名云布都御魂
 此刀者坐
石上神宮

《伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇段》では刀が奉納される。
 又坐鳥取之河上宮 令作横刀壹仟口
 是奉納
石上神宮 即坐其宮 定河上部也

《伊邪本和氣命/履中天皇段》では暗殺を逃れた天皇の退避場所として登場する。
 故上幸 坐石上神宮也。・・・
 明日參出 將拜神宮 故號其地謂遠飛鳥也
 故參出
石上神宮

尚、この他に、宮の地名としての記載がある。・・・
《穴穂御子/安康天皇段》
 坐石上之穴穂宮
《意意祁命/仁賢天皇段》
 坐石上廣高宮

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国家存立基盤には、国家分裂を図る内乱鎮圧のための軍と、統治機構内のクーデターを抑える公安警察が不可欠だが、両者が独裁者を崇めるようになることは少なくない。
インテリは自由な精神を志向することが多いので、独裁による抑圧を嫌うが、大国たることを基本原則とする中華帝国の場合は儒教を根底に置くので逆になる。太安万侶はそこらを嫌っていたということかも知れない。物部的な動きは、儒教に乗せた神祇に映ったのではあるまいか。
そう思うのは、「記紀」以外で、日本で重んじられた書に、そのような体質が見てとれるからだ。以下4書は全く異なる考え方である。平安期、「古事記」は見向きもされない存在で、国史と「先代舊事本紀」が基本書だったと見てよさそう。・・・
「古事記」@712年…インテリ層読者対応の、口誦叙事詩の"和文"文字化ガイスト(太安万侶の歴史社会観で編纂)
「日本書紀」@720年…公的プロジェクトで編纂した国史【系図欠巻】
「古語拾遺」807年…基本口誦秘伝で経典不要の神祇系伝承を斎部広成が公開がさしつかえない範囲で整理した文書
「先代舊事本紀」@830±20年…儒教的に再編した「記紀」神典(石上神宮伝承譚挿入+付録として国造リスト)【系図欠巻】序文は明らかに偽書であることを示しているし、江戸期国学者達の検討では、序文だけ挿入された兆候が見出されていないから、残存本は後世編纂されて成立した書の可能性が高い。しかし、この書名自体は上述の年代に存在していたらしい。

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