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■■■ 「古事記」解釈 [2024.6.4] ■■■
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「古事記」記載の33天皇のうち崩御干支記載は15しかなく、新しい時代でも欠落は少なくない。いかにも不完全な印象を与えるが、編纂者は当然視しているようで全く気にしていないようだ。

国史の場合は歴史書である以上記載しない訳にいかないが、両者が一致しているのは巻末の2天皇のみ。
もともと、朝廷では、外交を除けば、公的に文字伝達していないのだから、国内で通用しない中華帝国の暦年を用いる必然性は皆無。国史編纂で急遽絶対年代記述の必要性に迫られたに過ぎまい。従って、国史記載の絶対年代ほど当てにならないものはないと思うが、優秀な官僚を集めたプロジェクトで作成しているのだから、わざわざ、意図的に創作したとわかるような表記をするとも思えない。(但し、史書である以上、都合の悪い情報は削除し、我田引水的な潤色は存在して当たり前。その辺りは「旧唐書」を見れば自明。)

倭の伝承譚では、滅多なことでは絶対年代が語られることなどないだろうから、「古事記」も、基本は中華帝国の資料との付け合わせの筈。・・・倭人記載の最古年代は周の成王(前1115-前1079)であり[@王充:「論衡」巻十九恢國]、これに対応させるのは極めて難しい。帝国に於ける時代はよくわからないが、「山海經」巻十二海内北經にも倭が燕に属すと記載されていて、かなりの古代から朝鮮半島に倭の拠点存在が認知されていたのはほぼ間違いない。もちろん、漢代に入ると、倭とは日本列島の人々とされてくる。
国史を編纂するとなると、これをどう解釈するかが最初の問題になる筈。
始皇帝代になると、越(雑多で一様ではない。)は散りじりバラバラになって逃亡した筈で、多くは南へ向かったが、朝鮮半島や日本列島にもむかったのは先ず間違いなかろう。それが、中華帝国官僚から見た倭人のルーツと考えてほぼ間違いない。国史はそれを踏まえて、作成せざるを得なくなる。厄介この上なし。(現代人がいくら知恵を絞ったところで、これ以上に特別な情報がある訳ではないから、8世紀初頭の判断より質の高い推定が可能との根拠は何もない。しかも、当時の官僚がどの様に推定したかもわからないのだ。ただ、少し考えれば、何時ごろの話をしていそうかは、なんとはなく見えてはくるが。📖干支の紀年記載に拘るな 干支で絶対年代はそれなりに読める)

こんな風に考えれば、個人的記憶に依拠する「古事記」より、多数資料参照の国史の方が下巻の干支記載については推定制度は高くなる筈である。それが実際に当たっているかは別問題だが。
「古事記」中巻では、新羅進攻辺りの年代が記載されており、国史としては漢籍や百済王国人の伝承情報に合わせて整理することになろう。さらに、この時代につながる先代は計算で崩御年を記載することになろう。
問題はこれより古い時代。「古事記」が示唆しているように、倭建命と父天皇の系譜には全く信頼性をおけないのだから、それ以前の干支表記にはほとんど意味は無いことになろう。にもかかわらず、御眞木入日子印惠命の崩御年を記載しており、これは、倭国としての存在性を海外にも示すことができた天皇という意味なのだろう。数字的に云々できそうな伝承があったとは思えず、天武天皇の当て推量と違うか。
それ以前の、事績記載ができない時代には干支の伝承がある訳もなく、国史の数字は様々な宝算から1つの数字を選んで計算したに過ぎまい。


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