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■■■ 「古事記」解釈 [2024.6.30] ■■■
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「古事記」関係の主張は、「古事記傳」以後続出して現在に至るのだから、山ほどある。その主要と言われている言説にできる限り目を通そうなどと云う大それた考えは全く無い。しかし、流石に、そこそこ参考になりそうと言われている論説は読むこともある。
ただ、「私はこう読みたい。」との記載に遭遇することが多く、その時点で取り止めとなる。どうしてそう読むことに至ったのかの論理も心情も不明なので、時間を割いてまで検討する気が起きないからである。(自然科学領域では、査読があるから、そう読む根拠が示されていない主張にお目にかかることは無い。)

勿論、文芸領域では、「私はこう読む。」との主張は大前提。わざわざそんな言葉を挟む必要などない。
もともと、見方は千差万別だからこそ評論を読むのが面白い訳で。

つまらぬ話を書いたが、極めて厄介な問題を孕んでいるので、書き留めておくことにした。
それを知ったのは、授業であるから、かなり昔のことだが。

その問題とは、評論の姿勢。・・・要するに、検討対象の著作を通じ、著者の"心を知り尽くす"ことこそが、肝というだけのこと。それは小林秀雄を読めばすぐにわかるだろう、と。
実際に、一人の著者を研究対象にしていた先生の教えなので、その言葉が突き刺さった。

と云うのは、それだけに、評論の質はピンキリにならざるを得ないということになるからだ。当然、その向上を目指して皆が頑張る訳だが、残念ながら、知識の豊富化や勉強時間増加をいくら心がけようが、ほとんど効果無しと、つき放された。
しかも、ついでながらとしての警言として、例えば、対象著作の成立時点の時代精神を理解していないと、お話にもならない、と。そんなことは授業で学ぶ以前の話で、予習しないで参加しても時間の無駄とのこと。

前段が長くなったが、本居宣長:「古事記傳」の思想的要諦たる、<唐心の否定>には十分注意を払う必要があるという話のために書いてみた。・・・つまり、本居宣長の「私はこう読む。」を考えるにあたっては、著作成立時点の時代精神を理解しておく必要があり、それを国学流行りという表層的知識で済ますのはいかにも拙いと云うこと。
換言すれば、朱子学の風が吹き荒れる、江戸幕府の思想上の統治状況を前提にして考える必要がある、となろう。

それを踏まえると、<唐心の否定>というコンセプトは、純な見方をしている様に映るが、唐心を唾棄しようとする姿勢自体が、唐心に染め上げられていると言えないこともない。・・・本居宣長流の「古事記」の読み方は、朱子学的な"唐心"思考とウリと言わざるを得ない。

教典的テキストをこれ以上は無理と思えるほどに徹底的に検証分析。そこから、教祖朱子の真意に迫るのは、朱子学者の基本姿勢以外の何者でもないからだ。(テキスト文章分析を通じ、著者の心に迫って、これこそが唯一正統無比な朱子学の解釈と主張することが、研究者の務め。ところが、政治イデオロギー的色彩が濃い学問だから、研究成果が認められれば、即、排他的な分派樹立となり、その流れに力があれば、非妥協的政治抗争勃発を招くこと必定。
儒教的独裁者にとってみれば、朱子学を基盤にして、道徳と倫理を強制的に統一し、安定統治できさえすれば万々歳だが、テキスト解釈で混乱を引き起こされたのではたまったものではなかろう。)


「古事記」は、聖帝的徳という観念を話の中に含んではいるものの、倭国社会の反儒教的風土を徹頭徹尾描いているのは確か。
しかし、それを尚古主義的に<倭語ありき>=<唐心の否定>というコンセプトに高めてしまう本居宣長の姿勢こそ、実は<唐心>的姿勢そのものという矛盾を抱えていることになる。


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