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■■■ 「古事記」解釈 [2022.10.27] ■■■
[歌鑑賞25]さねさし相武の小沼に
【(后)弟橘比賣命】入水辞世
佐泥佐斯さねさし 佐賀牟能袁怒邇さがむのをぬに 毛由流肥能もゆるこの 本那迦邇多知弖ほなかにたちて 斗比斯岐美波母とひしきみはも
㊄(4-7)-(5-7)-7

    爾 其后歌曰
さねさし  
相武の小沼に  相模国の
燃ゆるこの  燃えている
火中に立ちて  火の中に立って
問ひし君はも  問われた我が君

太安万侶は、この歌の存在から、駿河国焼津という一般に流布している話は正統な伝承である訳が無いことを確信したと見てよいだろう。もちろん、この歌が改竄されたとか、後世の挿入歌であるから、「古事記」から削除すべきと確信するなら別だが。

焼津は駿河湾の西南側で、遠江国との境にも近く、一方の相武の小沼とは現在の相模原東大沼辺り(もともと大小の沼が点在していた地)と比定できるから、遠く離れた全く別の地点である。
この譚は、所謂"向かい火"。
  於是 先以其御刀苅撥草
  以其 火打 而 打出火著<向火> 而 燒退還出

本来的には港湾名には不適合な言葉だが、朝廷にとって記憶に残すべき話であったので、たまたま該当する地名を当てた可能性があろう。しかしながら、他に妥当そうな残存地名が全くみつからないし、小沼の情報も欠落しているので、この場所は焼津ということにせざるを得まい。そうでないと、富士山眺望の地である駿河〜伊豆をとばして関東の話が始まることになってしまい、脆弱な構成のストーリーになりかねないし。📖富士山を無視する理由

ただ、大胆な推定をすれば、倭建命は、小沼辺りの広範な地域はすべて焼き尽くさせ、そこには何も残らなかったということかも。余りに残忍過ぎるので、後世の話題としてはタブー化されただろうが。しかし、このような一帯絶滅作戦が行われたとすれば、東国の倭建命軍に対する姿勢は一変したに違いなかろう。(大陸での古代の戦乱とは、基本は敵対部族絶滅で、捕虜とは生贄用である。儒教の宗族第一主義は子々孫々迄、恥をかかされた場合は、子々孫々までこの敵を抹消する義務を負うのだから、この思想が根にあると考えられる。ただ、合理主義が被さっているので、それが容易くできるまで処世術を駆使すべきとなるに過ぎない。)

何故に、相武の小沼譚に拘るかといえば、この歌はそのような話のなかで登場している訳ではないからだ。

倭建命妃の弟橘比売命入水時の、いわば辞世の歌。
にもかかわらず、恋する夫への愛情でもなければ、楽しかった新婚の頃の思い出を語る訳でもない。一般的にはかなり特殊な情念表現と言わざるを得まい。
しかも、歌った時点では"后"とされている。このことは、火攻めを受けた時に妻だったことを意味していそうだ。倭建命はすでに婚約しており、その後に弟橘比売命を娶ったことになろうが、一体、何処でそれが成ったのか気にかかるところだ。
しかも、"后"であるが、経緯不詳。

歌われたのは、三浦半島の走水で、対岸の房総半島に一番近い横須賀の突端部であり、相模国に俗すとはいえ、小沼との関係がありそうに無い地。小繰り返すが、そこでの辞世の歌に小沼での<向火>の話。
そこまでして拘らざるを得ない、強烈な原体験があったということ。そのことで、自分は本来命を捨てるべき存在であるとの強い信念が確立されていたと見るのが自然だと思う。愛する夫の為に死ぬのであるが、それは小沼の<向火>発生の時にすでに運命づけられていたと。

従って、冒頭の<さねさし>には、複雑な想いが籠められている可能性は捨てきれない。尚、この"相模"の枕詞<佐泥佐斯さねさし>は本居宣長によれば、佐泥佐斯[=相武国]

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