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■■■ 「古事記」解釈 [2022.10.28] ■■■
[歌鑑賞26]新治筑波を過ぎて
【倭建命】「吾妻はや」と歎息@甲斐国酒折宮
邇比婆理にひばり 都久波袁須疑弖つくばをすぎて 伊久用加泥都流いくよかねつる
㊂(4-7)-7

    即 自其國越 出甲斐
    坐 酒折宮之時
    歌曰

新治  (常陸国の)新しい統治(が始まった)
筑波を過ぎて  筑波を過ぎて
幾夜か寝つる  幾夜寝たことであろうか

酒折宮での歌だが、このNo.26㊂4-7-7の問いと、次のNo.27㊂5-7-7の答えからなる片歌問答は、俗に「筑波の道」と呼ばれていて、連歌の起源とされ、よく知られている。
もちろん、「古事記」嫌いの人もいるから、「萬葉集」を当てるべきという意見もあろう。
[巻八#1635]尼作頭句并大伴宿祢家持所誂尼續末句等和歌一首
  佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を[尼作]
  刈れる初飯はひとりなるべし[家持續]

それにしても、どのような応答を期待しているのかが極めて曖昧な歌だ。

ともかく、遠くまで来たということに、焦点をあてる言葉を入れることで、それに並ぶ機知の効いた作を期待していることはわかるものの。
新治とは、地名ではあるものの、開発されたばかりの新墾地帯の柔い路を踏みしめて進軍していることを示していそうな言葉だし、筑波にしても、おそらく、倭の文化の尽く端の地を暗示していそう。
つまり、往き付ける最果ての地迄討伐し尽したという意味だと思う。

と云うことで、東の地を征伐し終えての祝賀の宴会だろうから、これで、一体、何日かかったものやらという感興を歌にしていると云えよう。
ただ、その場合、一番遠かった地を思い出す前に、出発地点を振り返ってその時の決意のほどを顧みる訳ではないから、起点を何処にするかは、人によって違いそう。最短期間をとるなら、筑波に入ってからの疾風怒濤のような日々を指すことになろうが、そう考えてよいのかはなんとも言い難し。

太安万侶も、余り細かく書く気はなかっただろうから、解釈はむずかしい。もともと、"相武の小沼"辺りからの記載は、政治的に難しいものがありそうだし。📖リスク覚悟で東国の実態記載

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