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■■■ 「古事記」解釈 [2023.1.11] ■■■
[歌鑑賞100]纏向の日代の宮は
【三重の采女】粗相で殺される寸前
麻岐牟久能まきむくの 比志呂乃美夜波ひしろのみやは 阿佐比能あさひの 比傳流美夜ひてるみや 由布比能ゆふひの 比賀氣流美夜ひかけるみや 多氣能泥能たけのねの 泥陀流美夜ねだるみや 許能泥能このねの 泥婆布美夜ねばふみや 夜本爾余志やふによし 伊岐豆岐能美夜いきずきのみや
麻紀佐久まきさく 比能美加度ひのみかと
爾比那閇夜爾にひなへやに 淤斐陀弖流をひだてる 毛毛陀流ももだる 都紀賀延波つきがえは 本都延波ほつえは 阿米袁淤幣理あめををへり 那加都延波なかつえは 阿豆麻袁淤幣理あずまををへり 志豆延波しずえは 比那袁於幣理ひなををえり 本都延能ほつえの 延能宇良婆波えのうらばは 那加都延爾なかつえに 淤知布良婆閇をちふらばへ 那加都延能なかつえの 延能宇良婆波えのうらばは 斯毛都延爾しもつえに 淤知布良婆閇をちふらばへ 斯豆延能しずえの 延能宇良婆波えのうらばは
阿理岐奴能ありきぬの 美幣能古賀みへのこが 佐佐賀世流ささがせる 美豆多麻宇岐爾みずたまうきに 宇岐志阿夫良うきしあふら 淤知那豆佐比をちなずさひ 美那許袁呂許袁呂爾みなこをろこをろに 許斯母こしも 阿夜爾加志古志あやにかしこし 多加比加流たかひかる 比能美古ひのみこ 許登能ことの 加多理碁登母かたりごとも 許袁婆こをば
㊽(5-7)-(4-5)-(4-6)-(5-5)-(4-5)-(5-7)-(4-5)-(6-5)-(4-5)-(4-6)-(5-7)-(4-6)-(4-6)-(5-6)-(5-6)-(5-6)-(4-6)-(5-5)-(5-7)-(6-6)-9-3-7-(5-4)-3-6-3

    天皇看行 打伏其婇 以刀刺充其頸 將斬之時
    其婇白天皇
     「曰莫殺吾身 有應白事」
    即 歌曰

この歌のお蔭で、結局、ことなきを得る。
    故獻此歌者 赦其罪也
纏向の  纏向の
日代の宮は  日代の宮は
朝日の  朝日の
日照る宮  日が照り渡る宮
夕日の  夕日の
日翔ける宮  日の光が翔んで行く宮
竹の根の  竹の根の
根足る宮  根が満ち満ちている宮
木の根の  木の根の
根延ふ宮  根が広がっている宮
八百によし  沢山の素晴らしいことがある
斎の宮  清らかな宮

真木さく  真木さく
日の御門  日の御門

新嘗屋に  新嘗祭の社屋には
生ひ立てる  立ち上がって生えている
百足る  最高潮で繁茂している
槻が枝は  槻の木の枝は
上枝は  上の枝は
天を覆へり  天を覆い
中枝は  中の枝は
吾妻を覆へり  東国を覆い
下枝は  下の枝は
鄙を覆へり  鄙を覆う
上枝の  その 上の枝の
枝の裏葉は  枝の裏葉は
中枝に  中の枝に
落ち触らばへ  落ちて触れ合い
中枝の  その 中の枝の
枝の裏葉は  枝の裏葉は
下つ枝に  下の枝に
落ち触らばへ  落ちて触れ合い
下枝の  その 下の枝の
枝の裏葉は  枝の裏葉は

あり衣の  衣服を
三重の子が  三っ重ねにした(三重から来た)子に
捧がせる  捧げている
瑞玉盞に  素晴らしい玉の盃に
浮きし脂  浮いている油の如く
落ち足沾ひ  落ちて浸かっていていて
水こをろこをろに  水はコロコロと音がし
来しも  これはもう
綾に恐し  誠にもって恐れ多く
高光る  輝かしく光を放つ
日の御子  日の皇子

事の語り事も  (伝える)語り事も
此をば  この様な(次第)

婇が機転をきかせて詠んだ歌のお蔭で、殺されずにすんだ理由を考えると、この長歌は画期的といえよう。
歌が命を護ったということで、歌の絶大な威力を指摘したい訳ではない。ここで歌の扱いが変わったからである。この天皇段には9首もあり、歌謡の帝王と見なすのは、実は数ではなく質である。

有名な「萬葉集」巻頭歌は、5世紀と推定される、この天皇の御製(求婚歌)。そうなる必然性はこの歌にあると見てもよいと言えるほど。「古事記」がこの譚を収録したお蔭で「萬葉集」があると言っても過言ではないほどで、歌の役割を一変させるインパクトがあったからである。 📖「萬葉集」冒頭歌選定は「古事記」の影響

この事件が発生した場は、正式な祭祀。であるからこそ、それを穢したということで殺される寸前になったのである。しかし、それが取り止めになったのは、機転を利かしたこの歌が高光る日の御子と呼ばれる天皇の琴線に触れたからである。

そこらを見ておこう。

構成だが、冒頭の宮寿ぎから、新嘗屋の寿ぎに繋ぎ、末尾で葉の盃入の見方転換を歌う流れ。
この冒頭部分には驚かされる。
宮寿ぎなら、当然ながら、大長谷若健命/雄略天皇の長谷朝倉宮であると思いきや、纏向の日代の宮であり、これは⑫大帶日子淤斯呂和気天皇/景行天皇の大帶日子淤斯呂和気天皇景行天皇代であり、両者にはなんらの直接的関係は無い。
それは新嘗屋の寿ぎでも引き継がれており、吾妻・鄙を治めるようになったのは倭建命の事績であり、同じく⑫大帶日子淤斯呂和気天皇代のことだからだ。

このことは、もともと婇が召されて歌うのは、昔の事績だったことになる。この歌は末尾を除けば、⑫天皇代より三重で語り継がれてきた歌ということになろう。・・・今上天皇は、婇を遠方からわざわざ召して、この伝承歌を新嘗屋の寿ぎとしての酒宴で、歌舞を挙行させて、愉しもうという式次第を考えていた訳である。
酒宴の歌とは概ねそのようなもので、開催背景に合うと思われる天皇好みの伝承歌が選定されていたのだろう。

しかし、それがこの歌を期に大転換することになったと見てよいだろう。
末尾だけは、伝承とは異なり、即興だからだ。天皇はそれを吉とみなしたことになる。しかもそれを皇后がエンドースする。新嘗には以後これで行くこととしようとの意思決定がなされたも同然。
要するに、⑫天皇代の歌が新嘗の公式歌と初めて認定された訳で、酒宴毎に歌が選定されるべきでなく、祭祀であるから正式歌を決めようという考え方を提起したも同然。おそらく。これに従って、祭祀歌が次々と確定した筈だが、新嘗と同じでそこには理屈は不要でたまたまなにかあっただけ。
このことは、逆に、"作歌"が公式祭祀歌から外される訳で、宴席で歌人が別途寿ぎの歌を創ることになる。当然ながら、各種各様となるし、磨き込みも半端ないものになる。「萬葉集」誕生の大元はここにあり、それこそが≪雑歌≫の正体。

≪雑歌≫とは、普通はその他と類似で分類し難い種々雑多という意味になるが、それとは違っており、≪正式祭祀歌の付属歌≫と≪半公式行事歌≫と見たらよいと思う。独立したジャンルであって、その他扱いではなくメインである。
換言すれば、≪雑歌≫と≪恋歌≫(おそらく。さらにここから≪挽歌≫が別扱いに。)という2大ジャンルに分別されることになった切っ掛けはこの歌。
「古事記」は歌だけ見れば、基本は≪恋歌≫集。それこそが倭国の変わらぬ体質であり、倭国の皇統譜とは恋愛譚の集積であり、そこから主要譚を収録たと言っているようなもの。非≪恋歌≫は、誰が歌おうと、作歌と記載されていない限り伝承歌である可能性が強かろう。

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