→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.6] ■■■
[歌の意味11]「萬葉集」の続歌
太安万侶は天武天皇から、舊辭・先紀の謬錯を正すようにとの詔勅を賜って「古事記」を編纂したのだから、稗田阿禮と口誦伝承叙事詩を紐解き、頭をひねりながら皇統譜を最初に作成したに違いない。その上で、ストーリーを肉付けしていったと思われるが、23代天皇の歌を並べ、これ以上は無用と判定したのではなかろうか。
   《下巻23代天皇関連》…9首(#105〜113) 📖
<播磨の隠遁地で身分を明かした>…1首
<即位前の歌垣で家臣と大喧嘩>…6首
<殺された父の遺骨埋葬地を覚えていた老婆に感謝>…2首

倭国とは、神婚から生まれた国であり、儒教や仏教の様に、宗族第一からくる恋愛抑制や悩みの根源たる恋愛からの離脱には膚が合わないものの、両者の影響から恋愛観が大きく変わってしまっており、この先はとうてい叙事詩たりえないと考えたのでは。

そんな気分で、同時代の歌のなかで、太安万侶にとって一番印象的な歌はこれではなかろうか。・・・
[巻一#27](天武)天皇幸于吉野宮時御製歌
  よき人の よしよく<見>て よしと言ひし
  よしよく<見>よ  き人四来よく<見>
     【左注】紀曰 八年(679年)己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮

明らかに、壬申の乱の旗上げの地で、6人の皇子(草壁 大津 高市 河嶋 忍壁 芝基)に盟約させた創作儀式歌である。"淑"は漢語でよく知られる"淑人君子"@「詩経」曹風 鳲鳩であり、文字表記なくしてはなんの面白味も無かろう。違盟は即我が身を亡ぼすとの詔と、ペアになるべき歌だが、結局のところ、崩御直後に大津皇子処刑がすぐに発生し、歌は、天皇の希望観測的意思表明以上の意味はなかった。口誦叙事詩時代とは様変わりである。

しかし、この歌は「古事記」からすれば、後に繋がる様な類では無い。歌とは、発祥の時点から恋歌なのだから。
それがどの様に変わったかは以下が能弁に語ってくれている。これぞ、「古事記」時代終焉⇒新時代歌樹立を示していると云えそう。・・・
---雑歌(各種祭祀・行事の歌)---
[巻一#20](天智)
天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
[巻一#21](天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)皇太子答御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇]
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも
【左注】紀曰 天皇七年(668年)丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣 皆悉従焉

歌だけ見れば、相聞歌(恋歌)以外の何者でもない。ところが、雑歌(各種祭祀・行事の歌)扱い。恋歌なら、二人の贈答とされる筈なのに、そうではないらしい。額田王は大海人皇子/天武天皇との間ですでに十市皇女が生まれており、人妻になってもその恋情が延々と続いていて三角関係と言えないこともないが公的な節会の宴席の歌としてはあり得まい。そうなると、通説通り、座興に詠まれたと解釈せざるをえまい。
神婚から始まり、歌垣を経て、恋歌が行き付いた先は、宮廷あげての一大行事での宴会での、笑いのタネと化してしまったのである。

しかも、この歌のシーンの、地名<蒲生野>は、不詳ではあるものの、琵琶湖沿岸であるから、<蚊屋野>はこの地の一角と見なしてもおかしくない。
  淡海之佐々紀山君之祖名韓帒白:
  「淡海之"久多"綿之蚊屋野 多在猪鹿」
冒頭に並べた「古事記」23代天皇段収載歌の核心的地名である。

 (C) 2023 RandDManagement.com  →HOME