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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.21] ■■■
[歌の意味26]歌と舞踏・奏楽の分離
「古事記」文字化に当たって、太安万侶は重大な意思決定を迫られたと見てよいのでは。

無文字社会に於ける、歌を含む叙事表現を、文字表記化すれば必然的に失われてしまうものがあるからだ。現代的な用語で言うところの、<曲>と<踊>が表記できないからである。

つまり、「古事記」の元ネタたる口承叙事の全体構造は以下のようになっていると考えると、変えざるを得なくなる箇所だらけ。
┌儛…身体表現 ⇒歌謡から切り離し

○┤[主]歌謡

┌詞…辞・囃子 ⇒ここのみ文字表記化

└声┤
┼┼┼┌節…拍・抑揚(高低・強弱・鼻濁) ⇒拍が音素文字数に
┼┼┼└詠┤
┼┼┼┼┼└吟…長短・反復・合いの手・(独唱から斉唱へ) ⇒アドリブ喪失
[伴]奏樂…楽器
[根底]想念…叙事

すでに書いてきたように、「古事記」の五七調とは、口誦の4拍であって、|♩♩♩𝄽|♩♩♩♩|、「萬葉集」の様な、音素文字言語で創作された歌を黙読棒読みするしかない五七調とは異なる。前者はコーダがあり、<57+57+7>型となるが、後者では4拍で謡う必要はないので、その意味はなくなる。<575+77>の方が収まりがよくなる。
つまり、両者は似て非なるモノ。<575+77>型は独立した作品で、歌人の主観的な抒情を根底にしており、叙事を描くことはできない。
一方、<57+57+7>型は、柔軟であり、内容はどうあれ基本叙事。稗田阿礼の様な専門家がアドリブを発揮しながら、聴き手の琴線に触れるように語るなかでの歌で、囃子詞、リフレイン、はたまた聴き手も一緒になった謡や、踊りが加わったり、奏楽までされることも珍しくないといった調子のシーンが想起される。それこそが倭歌だと思う。

文字表記化を追求すれば、そのような伝統を続けることは難しく、残すべきものを絞り込むしかない。できる限り、雰囲気を伝えることができるように、工夫しながら歌を記載したというのが実情だろう。

しかし、音楽性については、いかんともしがたいものがあり、ほとんど伝承できなかったと言ってよかろう。

現代に伝わるものとしては雅楽があるが、どう見ても、仏教の声明理論ベースの曲であり、倭の伝統をそこに重ねるのは無理筋だと思う。
・・・ただ、八度Octaveとか12音という概念は、弦楽器の調律をすれば、自然発生的に生まれるものだから、万国共通になって当たり前。音楽の違いとは、これをどうアレンジして曲にするかの違いでしかなかろう。倭琴は古くから存在しているから、オクターブと12度を知っていた筈だが、それを明確にすることをえらく嫌っていたようにも思える。恣意的に、音をずらすとか、連続的変化の方を愛していた可能性は高そう。文字化を嫌ったのと同様に、譜面化には不向きな音楽だったことになろう。中華帝国に、倭楽の楽師を献納せざるを得なくなって、そうもいかなくなり、大転換を図らざるを得なくなったのだろうが。
(ともあれ、音楽・舞踏・文学のジャンル分けが始まったことになろう。「萬葉集」とは音曲と歌の隔絶化完成ということでもあろう。)

同時に、儛と歌との分離も決定的になったと言ってよいだろう。
その辺りは、太安万侶が序文でわざわざ注意するように、と記述しているようなもの。・・・
    列儛攘賊 聞歌伏仇
これに直接該当する本文の久米歌シーンに<儛>という仕草を示唆する記述が見当たらないのだ。
このことは、歌には、儛が自動的に含まれていることを意味しよう。

ここらは、「隋書」の南島・倭・ソグドの記載を眺めた想像を脱するものではないが、普通に考えればそうなるのでは。・・・
[巻八十一(列傳46) 東夷-5流求國]*
凡有宴會 執酒者必待呼名而後飲 上王酒者 亦呼王名 銜杯共飲 頗同突厥
  歌呼蹋蹄 一人唱 眾皆和 音頗哀怨 扶女子上膊 搖手 而 舞

[巻八十一(列傳46) 東夷-6俀國]
樂有・・・📖𥜪樂観点で眺めると
  死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞
[巻十四(志9)音樂中]
先是周武帝時 有龜茲人曰蘇祗婆・・・然其就此七調 又有五旦之名 旦作七調

【注:*】伝えられている琉歌は恋歌が基本のようで、八八八六(=30文字)だから、リズムとしては|♩♩♩♩|♩♩♩♩|♩♩♩♩|♩♩♩𝄽|ということになろう。八の連続では切れ目が見えなくなるから、長歌や掛け合い連歌には不向きな構造だし、リフレインが単調過ぎるから、4句の斉唱はどうも考えにくい。豊玉比売の歌も4句でなく、5句であるところを見ると、古代とは形式が異なっていたようにも思える。儒教が入って歌垣禁止になったことが知られており、以前の歌は抹殺された可能性もありそう。

ついでながら、小生は東アジアの音楽の祖はソグドとみている。
粟特ソグド】は広域交易のオアシス国家群で、人種的出自は古ペルシアなので宗教はゾロアスター[祆]教だが、周囲の宗教(マニ[摩尼]教・ネストリウス派キリスト[景]教・仏教・ベーダ教)をすべて受け入れており、極めてインターナショナルな文化が生まれていたのは間違いない。
康 国サマルカンド+石 国タシケント+安 国ブハラ+西安国/戊地国/火尋国バイチョン+史 国ケッシュ+小史国ナサフ+東曹国ウスルーシャナ+曹 国カブーダン+西曹国イシュティハン+米 国マーイムルグ+何 国クシャーニヤ+畢 国パイカンド+亀茲国クチャ+・・・。
(天子独裁-官僚統制の儒教国の体制では、社会安寧のため、個人の精神的自由や恋愛は徹底的に抑制されるので、あくまでも枠内での自由表現に留まる。官僚主導による、国家制定形式で整えられた賛歌が最上級芸術とされ、その見方を受け入れない動きは早々と摘み取られる。従って、中華帝国の芸術とは、粋を極めた統制品以上ではなく、その起源も、画期的技術同様に国外発祥を権力的に帝国由来にさせたものと見て間違いない。・・・科挙官僚は新しい動きを国外との接点からつかみ取り、それを利用して政策として提言し、天子から政治的力を委任されることを狙う。これによって一大政策転換に繋がれば、必然的に旧官僚の粛清を伴うことになるから、皆必死である。国家的に新政策が上手くいかないことが判明すれば、当該官僚集団抹殺命が発せられるしかないが、それが難しいと革命が推奨されることになる。)

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