→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.23] ■■■
[歌の意味28]歌も地文も音のリズムが命
口誦叙事は、音で感じさせるリズムありきの作品ではなかろうか。

速須佐之男命作御歌をその内容から判断して、美しいと"考えるべきか"と検討を試みる人は、まずいまい。歌の鑑賞はひとえに感受性の問題であり、素晴らしいと感じたなら、それは技法というより、その響きではなかろうか。
[歌詠]「八雲立つ 出雲八重垣
   妻籠みに 八重垣作る
   その八重垣を」


「古事記」では歌は音素表記なので、上記のリズムは直に伝わるが、地文は表記方法が異なるので文そのものの読み方が一意的に定められないものが多い。それでも、"通説"なるものが存在している箇所も少なくない。しかし、それを受け入れる必要などなかろう。
なかには、千差万別に近い読みになっている箇所もある位で、その部分を見ると、読み方の基本原則など存在せず、場所毎に、想定文脈に合わせているだけのようだから、通説も同様に決められたと見てかまわないだろう。

つまらぬことに拘っているように思うかも知れぬが、「古事記」を叙事、つまり口誦歌物語的な作品に仕上げてあると考えるなら、後世の類文を参考にしながら地文を純散文として読むのはお勧めいたしかねる。地文は歌の題詞を豊富化したものではなく、歌と地文は切り離せない構造になっている以上、地文にも、歌に合わせた、音で感じさせるリズムがあってしかるべしと考えるからである。
(但し、この手の音の感じ方は単純ではない。音楽で言うなら簡単だが。・・・バッハの無伴奏チェロなら聴けば誰でも旋律がすぐわかる。しかし、テレマンのフルート独奏"ファンタジー"になると、通奏低音の1音が鳴ってその後は主旋律が流れるだけ。従って、耳に通奏低音の音は伝わっていない筈だが、素晴らしい演奏だと、頭が勝手に判断して通奏低音が鳴っている。もっとも、聴衆は現代人であるから、そうは聞こえない人の方が多かろう。)

読めないような文章にしてあるのは、そこを読めるようにすれば、口誦叙事の美しさが発揮できなくなるからと見る。叙事に徹するなら、日本語の特徴を考えれば、標準的文章の構造に従って記載するとは思えない。
例えば、上記の歌の前段の地文は、こうも読める。・・・
[詔語]われ_此地ここ_
   _御心みこころ
    須賀須賀すがすが

1行目は、漢文型のレ点読みにしたくなるだろうが、史書として読むのではないのだから、このママの語順で構わぬというより、そうすべき。吾や我がどう読まれていることが多いという分析的な検討など不要であって、音からすればこれが最善ということでの読みである。助詞もその観点で選んでいる。

繰り返すが、「古事記」の文章の読み方は、一意的に決まるものではない。太安万侶には、そのような意図は全くないと言ってかまわぬと思う。口誦者のアドリブや揺らぎがあって当たり前と考えていた筈だ。その上で、これが最良と感じる読みができるように配慮して表記したことになろう。
ここらの考え方を曖昧にした"読み方"議論は無益だと思う。

一見、親切な割注まであるから、読み方は決められていた筈と思いがちだが、単に誤解を生みだしかねない部分にのみ挿入しているだけ。漢文に倣い、文章の切れ目さえ表記しないのだから、親切心などという感覚とはほど遠い。
(誰でも驚くと思うが、序文の漢文と本文の倭文は改行無しに続いている。)
・・・太朝臣安萬侶天地初發之時於高天原成~名天之御中主~[訓高下天云阿麻 下效此]次高御產巢日~・・・

ついでながら、この本文イの一番の表記は、インテリ読者が大喜びしそうな書きっぷり。真面目な顔をして訳のわからぬ理屈を言って煙に巻く手の記述である。
  【漢文@序文】天地開闢
  【倭文@本文】天地初發之時
言うまでもないが、両者の意味は同じ筈だが、倭文の方は<發>の訓読みは不能である。このため解釈はえらくバラつく。ココは、古代だからわからないのではなく、太安万侶が仕掛けたと見る方が自然だと思うが。

≪天地≫
   天地あめつち
   天地あめつち_
≪初≫ はじ-め/はじ-めて はつ そ-める/そ-む うい/うぶ
・・・はじめ・・・
・・・はじめ_て・・・
・・・はじめ_に・・・
≪發≫ た-つ はな-つ つか-わす あば-く おこ-る
<無読>…初發波自米[本居宣長]
・・・-・・・
<起こりし>…発生
・・・おこ-る・・・
・・・おこ-り()・・・
<現れし>…出現
・・・あらは-れ・・・
・・・あらは()・・・
<開けし>…開闢
・・・ひら-く_・・・
・・・ひら-け()・・・
≪之≫ 📖[安万侶文法]"之"文法の入り口("シ"は音。)
・・・・・・
・・・・・・
・・・-・・・
≪時≫
・・・とき
・・・とき_

この文章も、<吾來此地・・・>同様に、音のリズム感を探って、読みを確定すると口誦叙事らしさが生まれるのでは。
・・・間違えてもらってはこまるが、小生が"審美"に凝っている訳ではなく、口誦叙事とはそういうものであることを太安万侶が理解している筈、と云うことでの"理屈"から。
天竺のベーダは神典であるが紛れも無き口承叙事詩。その言葉の美しさを保つために音素表記のサンスクリット文字が生まれたようなもので、逆ではない。太安万侶が歌には全面的にその表記思想(音素表記)を取り入れたのは、その考え方に共鳴したからに違いあるまい。しかし、それを地文にまで拡張できなかったのは、倭語の多義性と、相対会話語なので同音異義が多すぎるせいだろう。もっとも、序文の説明では余りに長文になり過ぎとしているが。

実際どう読むかは、色々な考えがあろうが、小生は、この場合は、助詞を入れない方が美しいと思う。"あめつち-○○○○-の-とき"がリズムとしては最善と感じるからだ。
そうなると、下記の様に訓じたくなる。・・・
   天地あめつち 初發はつたつ とき

 (C) 2023 RandDManagement.com  →HOME