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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.25] ■■■
[歌の意味30]アンチ律令国家
「古事記」偽書説の例を取り上げたついでに、序文のみ偽書説も面白いしポイントを突いているので触れておこう。

この手の話をあまり見かけないのは、古くから言われ続けて来た主張なので、折角、社会的に否定を確定させたのに、蒸し返すつもりかと、反撥をかうかららしい。下記の発表では、不愉快極まる見方だろうが、と述べたそうだからご注意のほど。

"わざわざ序を付ける必要が出たきたのかといえば、もともと律令国家とは離れて存在していた古事記を権威づけるため"
[三浦佑之:"古事記「 序 」を疑う"「古事記年報」(47) 2005.1.28]

素人的な見方からすると、序文が偽書である可能性は低い。
残存写本は、序文と本文は切れ目ない漢文でつながっており、後から序文が別途追加された形跡はない。そもそも、天皇名が記載されている偽造の上表文が公開されることなどおよそ考えられまい。従って、序文が偽造なら、本文も偽造とみなすべきだろう。

ただ既に述べて来たように、序文と本文では、その思想が180度異なるので、そう考えたくなるのはおかしなことではない。と云うより、上記の主張は至極まとも。その理由を的確に指摘しているからだ。
「古事記」編纂命を下した天皇は、中華帝国での統治基準に基づく律令国家化に邁進していた。臣下としては、「古事記」編纂を通じてそれを支える必要があろう。ところが、口承叙事のほとんどは、儒教とは両立しがたい話だらけなのだ。こうなると、引用編纂書であるから、律令国家化にプラスとなるような書はできかねる。(国史編纂プロジェクトもおそらく挫折だらけと思われる。)
しかし、漢文が公的文書化される流れのなかで、口誦語り部絶滅が危惧されるし、倭語の宮廷歌謡も消えていく可能性が高いのは、自明。いかにして、この伝統を伝えるかは太安万侶にとっては緊要な課題と化していたと思われる。結局、考えた結果が「古事記」として結晶したと見るべきだろう。つまり、儒教適合の序文を付けたのは、太安万侶の一計ということになる。

読めばすぐわかる通り、「古事記」には民衆の歌は無い。すべて宮廷伝承歌である。
ところが、その作風は現代人が考える様な宮廷歌とは全く違っている。
すでに書いたように、久米歌にしても、およそ公的儀式に合うような高尚で重々しい雰囲気からは遠くかけ離れており、ほとんど戯歌。これだけでも、宮廷の儀式で、威厳を高める工夫を図る取り組みには興味がなかったことがわかろうというもの。酒宴に堅苦しい行儀を取り込むなど真っ平ご免体質と見てよいのでは。
「琴歌譜」📖収録歌を見ても、いずれも宮廷の人々が記憶に留めたい作品に過ぎない。天子への形式ばった儒教的寿ぎ文化とは水と油。

天皇にしても、気に入った女性がいれば即座に恋歌を謳い、時に狩猟に興じ、季節に応じた祭祀には酒宴開催という生活だったように映る。儒教的な官僚ヒエラルキー確認のための格式重視の行儀など無用と考えていたとしか思えない。それが「古事記」が描いた世界では。(儒教が根底に置かれる様になると、天子さえも規制されて自由に振舞えなくなる。)

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