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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.3] ■■■
[歌の意味36]文字上同じでも国史の歌とは違う
「記紀」収録歌を一瞥すれば、片や、地文歌一体の口誦叙事の文字化の書であり、他方は、歌を埋め込んだ事績編年紀であることがよくわかる。

太安万侶と稗田阿礼が注力したのは、あくまでも叙事の口誦歌謡の表記であり、それは必ず塊になっている。その塊を皇統譜に当て嵌めたのが「古事記」。
もちろん、系譜自体も一種の叙事。部族伝承の祭祀では、一般に系譜が美しい声で謳われるものである。場合によってはそれが宗教に組み込まれることにもなるが、こうした口誦叙事は宗教観に裏打ちされているのが普通と見るべきだろう。

一方、国史は全く異なっており、宗教に裏打ちされた思想に基づいて、王権の推移を記載した書。そのため、先ずは、正統王権の継承状況の確定が不可欠となる。つまり代々大王譜から編纂が始まる。その意思決定ができさえすれば、後は、各代毎に大王の事績を網羅すればよい。代間の齟齬を調整すれば「紀」の完成である。(必要ならば、非王家の部分として「列伝」を追加することになるが、補足文章として「紀」に組み込むこともありえよう。)
当然ながら、その内容は王朝の権威を高める様に工夫されて記述される。普通に考えれば、事績に歌をわざわざ入れ込む必要は無かろう。天武天皇の意向に合わせたということか。(儒教「礼楽思想」受容との政治的意思決定に対応したと見なすことになる。この辺りは別途考えるか。)*
しかし、倭国は話語の社会で、文字使用を嫌ってきたから、忘れがたき事績には必ず記憶し易い歌があってしかるべしだ。文字化に当たっては、歌収録不可避の社会風土が存在すると言ってよさそう。
と云っても、国史編纂者にとっては、各代の大王の事績ありき。そうなると、歴史書としては、まずは散文としての事績表記文を仕上げてから、結節点に相当する箇所に後から歌を埋め込んで調整するのが合理的。

要するに、両者の考えは水と油。

ただ、官僚の仕事である以上、通奏低音的に、代々の大王については同じ記載になるから、あたかも類似書のように映ってしまう。ところが、両者は、作成過程が全く異なるので、全く異なる様相を示すことになる。部分的に齟齬があるという見方は間違っており、根本的に異なると考えるべきと思う。
歌について言えば、「古事記」は必然的に宮廷歌謡としての叙事の一部として収録された作品と云うことになろう。我々が普通に接している"独立歌"とは異なるジャンル。
国史では、朝廷の官僚の視点で事績に一番合った歌が選定される。従って、文字的には「古事記」とそっくりであっても、その位置付けは同じとは限らない。もちろん、全く違ったシーンで同一歌が登場してきても、なんら驚くことではないし、意味が180度違っていることもあろう。特段、潤色を図っている訳ではない。
「古事記」は歴史書ではないから、原則的には、その歌謡の塊に影響を与えかねない事績は収録されることはない筈だが、脈絡なく、孤立しているように映る事績が収録されることはおかしなことではない。叙事内容の変遷という観点で、捨て置けない影響を与えていそうと判断したなら、必ず記載してある筈だ。歌謡史として全容を把握しないと、各歌謡の叙事の表現を味わうことはむずかしいのは当たり前だからだ。
そこらに気を遣っているからこその、上卷・中巻・下巻の仕訳を行ったと見てよかろう。

そのように考えれば、両者の神話の扱いが全く違う理由もわかろう。
太安万侶は、サンスクリット文字が、口誦を正式とする叙事詩ベーダの"音"の正統伝承を維持するために作られたことを知っていたと考えるべきだ。(インド〜中近東は現時点でも正式な伝承はすべて口誦。従って、美しい発声は聖職者の必須条件。当然ながら、イスラム聖典は国語ではなく、アラブ語で誦む必要がある。)
そのことは、冒頭の倭国神話の中核たる"美斗能麻具波比"の記述ではっきり示されている訳で。「古事記」はあくまでも音素表記に拘るのだ。
国史も流石に、漢字読みの割注を入れているが、音素文字にする気は毛頭なく、他での注記同様に、"音"に拘っている訳ではなく、"をとめ"と"をとこ"という倭語であり、漢語表記にしているので他の語彙と誤解しないようにという親切心から。

言うまでも無いが、この箇所こそ、太安万侶と稗田阿礼がなんとしても後世に残したかった表現。2句(5-5)の相聞形式であるものの、2句(5-7)を基本単位とする倭歌の前駆体だからだ。
  あやよし 乙女をとめ
  あやよし (少)男をとこ

倭国に於いては、国土創造対偶~の最初の営みであり、この表現を真摯に扱っているのは「古事記」だけ。
「今昔物語集」で気付かさせられたが、天竺・震旦と全く文化が異なる由縁はこの辺りにある。国史編纂チームメンバーは間違いなく優秀な人達だが、それは分析頭脳での話であり、そこらのセンスは欠落しているから致し方なかろう。
もっとも、このことは「古事記」を読む現代人にも言えることで、気付かない方が普通かも知れない。・・・
[「古事記」前駆]阿那邇夜志あやによし 袁登古袁をとこを
     阿那邇夜志あやによし 袁登賣袁をとめを📖
[ 国史本文]  よき哉 遇可美少男烏等孤焉  ・・・憙≒喜
     憙哉 遇可美少女烏等
[ 国史一書#1] うつくし哉 可愛少男歟
     妍哉 可愛少女歟
[ 国史一書#2〜4]
[ 国史一書#5] うまし哉 善少男
     美哉 善少女
[ 国史一書#6〜9]
[@国史一書#10]妍哉 可愛少男歟

【*】@「日本書紀」
[天武四年二月] 二月乙亥朔癸未、勅大倭・河内・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等国曰:「選所部百姓之 能歌男女 及 侏儒 伎人 而 貢上」
[天武十四年] 是日(九月戊午) 詔曰:「凡諸歌男 歌女 笛吹者 卽 傳己子孫 令習歌笛」
[持統元年正月丙寅朔] 皇太子率公卿百寮人等 適殯宮 而 慟哭焉・・・樂官奏樂

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