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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.8] ■■■
[歌の意味41]倭建命関連は不都合な内容も
国史に収載されなかった歌についての続き。…📖非収載の国史挿入歌一瞥 表示歌

   《中巻倭建命関連》…15首(#24〜38)
いくつかは国史には収載されていないが、官僚としての特段の配慮の結果と云うより、常識的な判断で見送っただけと思われる。
このことは、太安万侶は、余計な配慮をせずに、口誦叙事を伝えるべく奮闘したことを物語る。おそらく些末な伝承譚もあったろうが、稗田阿礼は重要な箇所にハイライトを当てるような歌謡の巧者だろうから、そのアドバイスに沿って編集されていると思われる。

<出雲健騙し討ち成功で得意三昧>…1首
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[24]やつめさす出雲建が佩る太刀黒葛多纏[巻]きさ身無しにあはれ
[20]彌雲立つ出雲梟師が佩ける太刀黒葛多巻きさ身無しにあはれ
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国史では、(巻五)崇神天皇60年秋。
(天皇)群臣に詔し給いひしく、
「武日照の命の天より將ち來れる~寶、出雲の大~の宮に藏めたり。
 是見ま欲し。」
これが発端で、兄 出雲振根は、不在中に~寶を天皇にすぐに貢いでしまった弟 飯入根を殺すことになる。この話を"時の人"が詠んだのが上記の歌とされる。・・・淵に誘い、共に游沐し、突然に弟の眞剣を取り、兄の木刀を取るしかなかった弟を漸殺ということで。
~寶と伴に朝貢された、弟と子
(甘美韓日狭と鸕濡渟)が朝廷にこのことを奏上し出雲振根は誅される。
出雲建は倭建命を余程気に入っていたのだろう。一方、倭建命はこの出雲伝承譚を知っていた訳だ。

<妻の身を捧げる愛>…3首
[25]さねさし相武の小沼に燃ゆるこの火中に立ちて問ひし君はも
国史では≪日本武尊初至駿河・・・故號其處曰燒津≫譚に相当するが、場所が異なっている上に、迎え火で放火による焼死をのがれたことになっており~剣のお蔭とはされていない。但し、一云で"藂雲茂羅玖毛"剣も引用されている。
太安万侶は、この歌が存在するので、焼津の地ではなく、"さねさし"相武であること間違いなしと判断したようだ。歌が核の叙事の文字化をしているのだから当然の姿勢。
国史は、東征経路の情報から見て、野火譚は焼津以外に考えられぬとなったため、それと矛盾する歌の掲載は見送るしかない。
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[26]新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
[25]新治筑波を過ぎて幾夜か寢つる
[27]日々並べて夜には九夜日には十日を
[26]かがなべて夜には九夜日には十日を
[番外 三歎]吾妻はや
[番外 三歎]菟摩者耶はや
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<東征完了後帰還し かねての約束通り初夜>…2首
[28]久方の天香久山利鎌にさ渡る鵠繊細手弱が腕を枕かむとは吾はすれどさ寝むとは吾は思へど汝が着せる衣裾の裾に月立ちにけり
[29]高光る日の皇子八隅知し我大王新瑞の年が来経れば新瑞の時は来経行く宜な宜な君待ち難に我が着せる衣裾の裾に月立たなむよ
これは国史プロジェクトでは即座に収載付加。現時点なら、平然と語れるが、現代でも少々昔なら西欧的常識から口に出すのも憚れるコト。📖歌は上品

<辞世的に、最後の気力で心持発露>…5首
国史では、信濃⇒美濃⇒尾張との行程で、≪日本武尊 更還於尾張 卽娶尾張氏之女宮簀媛 而 淹留踰月≫としか記載されておらず、次が、近江の五十葺山。
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[30]尾張に直に向かへる尾津の岬なる一本松吾兄を一つ松人に在りせば太刀佩けましを衣着せましを一つ松吾兄を
[27]尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣著せましを太刀佩けましを
[31]倭は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭し麗し
[22]倭は國のまほらま疊づく垣山籠れる倭し美し
[32]命の全けむ人は畳薦平群の山の熊樫皮を髻華に挿せその子
[23]命の全けむ人は疊薦平群の山の白橿が枝を鬟華に挿せこの子
[33]はしけやし我家の方よ雲居騰ち来も
[21]愛しきよし我家の方ゆ雲居騰ち來も
      :思國歌 :思邦歌
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[34]少女の床の辺に我が置きし剣の太刀その太刀はや
最期の歌だが、国史では、<於是 聞近江五十葺山有荒神 卽 解劒置於宮簀媛家 而 徒行之>とあるのみ。レガリアを巡る歌は、避けるのが無難。

<葬儀で遺族は深い悲しみに陥る>…4首[大御葬儀歌]
[35]水漬きの田の稲柄に稲柄に匍匐廻ろふ野老葛
[36]浅小竹原腰難む虚空は行かず足よ行くな
[37]海処行けば腰難む大河原の植ゑ草海処は猶予ふ
[38]浜つ千鳥浜由は行かず磯伝ふ
大御葬儀歌の発祥は不詳なれど、どの歌をとっても、倭建命固有と認定できる内容が含まれていない。「古事記」でも、はっきりとこの葬儀は朝廷非公認の私的なものと記述してある位で、国史プロジェクトとしては採択するのは難しかろう。

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