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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.12] ■■■
[歌の意味45]徹底的に磨き込まれた兄妹婚歌謡
国史に収載されなかった歌についての続き。…📖非収載の国史挿入歌一瞥 表示歌

   《下巻軽王・軽大郎女》…12首(#79〜90)
太安万侶・稗田阿礼は珠玉の叙事歌謡として全精力を費やして磨きぬいて収録したのではないかと思われる。様々なバリエーションが生まれていた筈で、国史では輕皇子は暴虐性の故に臣下の信を失ったとする無難路線を採用するに違いないから、ここは禁忌の同腹兄妹婚に敢えて踏み切った男女の恋を描き切るために、洗練されたシナリオにすべく考え抜いたに違いないと思う。

小川国夫:「明るい体」1985年📖を読んでいる気分になったからでもある。(ただ、聖書について自分なりの考えがまとまっていないと、こうした話になんの感興も覚えないだろう。)小生なりに言い換えると、「古事記」の編纂の仕方は余りに仏教的ということ。
わかりにくいかも知れないが、本質的には、仏教は近親相姦禁忌ではないということ。単に男女関係の悩みが他のファクターが絡んで重層化しているに過ぎず、特別視している訳ではない。(空海はそれに気付いて関連仏典貸借を止めたと見る。実際、チベット仏教の核となったタントラとは、超近親との高次の性的関係を至高の境地と見なす観念。天竺は職業種族社会な上、寡婦が夫の兄弟との再婚が多いので、親族婚は当たり前だし。釈迦族も兄妹婚が存在していたようだし。)
儒教の中華帝国でも、禁忌とされるのは宗族秩序維持のためであり、そこさえクリアできるなら、抜け道はいくらでも用意できるのが実情。
太安万侶が仏典を逍遥したインテリ層だとすれば、その辺りはご存じだったと考えてもよいだろう。つまり、同腹兄妹婚は宗教的禁忌ではなく、単にその社会のモラル破りでしかないということ。
愛はモラルを超越するというのが厳然たる事実で、当人も悩むことになるが、その結果は必ず帰ってくるというのが仏教の法則。(夫を殺させてその妻を娶った天皇も、妻の連れ子に殺害されるが、これも因果応報的描き方。)

「古事記」・国史の重複歌はそれなりに揃ってはいるものの、ストーリーでは、伊予配流者が皇子と皇女で入れ替わってしまった。そのため、冒頭歌以外は、歌の扱いが自動的に変わっている。
歌物語的に仕上げたい「古事記」の方はまあ自然な感じがする歌の流れだが、国史の方は、無理な辻褄合わせに映ってしまう。(入れ替わっていても、両書重複の、大王を島に葬りと詠む船餘り歌は説明に窮する。)「古事記」をすでに読んでいる国史チ―ムメンバーがそう感じない訳がなかろうに、宮廷でよく知られた歌なので嵌め込む必要があるということで、最適解これしか無しで決着したのだろう。
国史編纂の立場からすれば、事績としてはone of themに近く、太子たる皇子の立場を尊重した記述であることが重要であるから問題なしだろうし。

太安万侶はそこらを予想した配慮は忘れていない。父の天皇について、病弱だったが推されて即位したものの、実質的に氏族選別の方策である<玖訶瓰>を行っていることをしっかりと記載しているからだ。支配層の動揺があったなかでの、禁断の恋路であり、すかさず皇位継承争奪発生という状況がよくわかる。さらに、成功裏に皇位を仕留めても、皇后の連れ子に暗殺されることになる訳だ。

<禁断の情事悲恋物語>…12首
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[79]あしひきの山田を作り山高み下樋を走せ下問ひに我が問ふ妹を下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ
[69]あしひきの山田を佃り山高み下樋を走しせ下泣きに我が泣く嬬片泣きに我が泣く嬬今夜こそ安く膚觸れ
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[80木梨之輕太子 夷振之上歌]笹葉に打つや霰のたしだしに率寝てむ後は人は離ゆとも 麗はしとさ寝しさ寝てば刈り薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てば
この歌は、禁忌を犯したことで、支援勢力が離れていったことを詠み込んでいるので、政治的に映る免があるから国史プロジェクトとしては避けたくなるだろう。"山田を佃り"で十分ということで。
逆に、朝廷の人々が背を向けるようになったと地文で書いてある「古事記」にしてみれば、そうなたところでこの恋路の歓びは何物にも代え難しと吐露する歌ほど光るものはなかろう。1首勘定になっているが、構造上は2首で、二人の嬉しさが伝わってくるように作られている。

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[81]大前小前宿祢が金門陰かく寄り来ね雨たち止めむ
[72]大前小前宿彌が金門蔭斯く立ち寄らね雨立ち止めむ
[82]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人響む里人も謹
[73]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人動む里人も斎め
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▼天田振(1/3)
[83]天だむ軽の乙女甚泣かば人知りぬ可し波佐の山の鳩の下泣きに泣く
[71]天飛む輕嬢子甚泣かば人知りぬべみ幡舎の山の鳩の下泣きに泣く
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▼天田振(2-3/3)
[84]天だむ軽乙女したたにも寄り寝て通れ軽乙女等
[85]天飛ぶ鳥も使人そ鶴が鳴の聞こえむ時は我が名問はさね
この2首は、最初の"天だむ"歌と違って、国史が収載見送りにして当然と思える。誰もが、これは輕地区で詠まれて来た歌ではと感じるからだ。もっとも、開墾事業をするとも思えない皇子が、"山田を作り"歌を詠むことに、違和感を覚えても気にならないのだから、見当違いかも。
逆に、だからこそ「古事記」は落とすことなどあり得まい。これこそ<輕>の地名が示唆する内容であり、輕皇子・輕大郎女譚には欠かせないからだ。もちろん、そのようなもともと知られていた歌を状況に合わせて詠むというのが、倭歌の仕来たりで、「古事記」が外部の歌を引用している訳ではない。本来なら、軽乙女"等"を単数にすべきだが、意図的にママにすることで、この恋愛はコミュニティのルールにかなっており、寿がれるべきものと自ら確認していることになろう。
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[86]大王を島に葬らば船余りい帰り来むぞ我が畳ゆめ殊をこそ畳と言はめ我が妻はゆめ
[70]大王を島に葬り船餘りい還り來むぞ我が疊齋め辭辭をこそ疊と云はめ我が嬬は齋め
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国史はストーリーが違うので、以下の歌は異なる収録先を見つける必要がある。無ければ没しかなかろう。
[87]夏草のあひねの浜の蠣貝に足踏ますな明かして通れ
[88]君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
[89]隠口の泊瀬山の大峰には幡張り立て小峰には幡張り立て大峰にし仲定める思ひ妻あはれ槻弓の臥る臥りも梓弓猛り猛りも後も取り見る思ひ妻あはれ
[90]隠口の泊瀬川の上つ瀬に斎杙を打ち下つ瀬に真杙を打ち斎杙には鏡を懸け真杙には真玉を懸け真玉なす吾が思ふ妹鏡なす吾が思ふ妻有りと言はばこそに家にも行かめ国をも偲はめ

尚、輕皇子の流刑先だが、記述に注意を払う必要があろう。宮廷の人々の太子への想いがココに現れているからだ。太安万侶流石。・・・
  故 其 輕太子者 流於伊余湯也

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