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2005.9.28
 
 


公的研究機関の改革を考える…

 日本は、知恵で食べる方向に進むしかないと思うが、そう思っている人はまだ多数派ではない。しかも、その進展が遅すぎることに危機感を持っている人は、そのまた一部にすぎない。この状態では、この国は衰退の道を歩むしかなかろう。

 言うまでもないが、多数派も知恵で食べている。但し、その知恵とは、ここで言う知恵とは違う。どうやって国にぶら下がるかという意味での知恵なのである。その点では極めて優秀である。しかも、こうした人達が、様々な組織を牛耳っているから始末が悪い。この人達が方向転換しない限り、どうにもならない。

 こんな状況であることは、都会でビジネスに携われば、教えてもらわなくても、肌で感じる。
 従って、こうした状況を突破する糸口が提起されれば、都会の人々がその流れに乗るのは間違いないと思うのだが。
  → 「衆院選の結果を眺めて」 (2005年9月27日)

 ・・・と語ったところで、漠然とした話だから、どうしたらよいのか見当もつかないだろう。

 具体例で問題を見つめると、こうした問題の解決のヒントが生まれるかもしれない。
 といって日々の生活にすぐに影響を与える課題では、議論が複雑化してしまうから、公的機関の研究所を眺めて、どう改革するとよいか考えてみることをお奨めしたい。
 ケーススタディのようなものである。

 研究所だから、先端的な分野で新しい“知”を創造するための組織だが、多くはほとんど成果があがっていない。このため、古くから“改革”が叫ばれ続けてきた。
 もちろん、なにも手をうっていない訳ではない。それなりに毎年動きはある。
 しかし、なかなか変わらない。

 そんな研究所で、研究者に実情を聞くと、共通の特徴に気付く。

 特徴は2つ。

 そのうち1つは、ビジネスマンならすぐ気付く。管理側のモラルが異常に低いのだ。

 間違ってはこまるが、世間一般の感覚でのモラルではない。

 真面目に毎日よく働いているし、金銭や物品を私用に流用したり、賄賂の話も聞いたことはない。その点では、よく管理されていると言えるのかもしれない。
 ビジネスマンが語るモラルとは、そんな問題ではない。本気になって仕事をする気があるかが重要なのである。やる気を指しているのである。

 この観点では、管理側のモラルはゼロに近い。

 どんな状況か、簡単に述べておこう。

 普通の感覚なら、研究管理の任にあたれば、どうすれば研究員が素晴らしい成果を生み出し易くなるか一生懸命考えるものだと思うが、そうはならない。上層部から指示されない限り、なにもしないのである。
 と言って、サボっている訳ではない。日々忙しく働いている。組織員に一般規律を守らせ、帳簿をつけ、業務報告書を作成し、上層部に成果をアピールするだけで、大変な作業量らしいのである。
 つまり、所内での問題発生を抑え、毎年の予算を滞りなく消化することが仕事と考えているのだ。
 従って、この観点では、モラルは極めて高いと言えなくもない。

 そもそも、管理側には、知恵を生み出す組織を管理しているとの意識がない。はっきり言えば、研究自体には、なんの関心も無いのである。
 そんな人達が、知恵を生み出す組織で采配をふるっているのである。
 とんでもない組織である。

 ところが、誰もがこの状態を当然視している。

 仕組み上、そうならざるを得ないからだろう。

 と言うのは、基本的な学術用語さえ知らない人が、突然、管理側担当者として配属されるからだ。そして、なんの勉強もせずに、毎日研究者からの説明を聞き続けることになる。流石に、興味がなくても、少しは用語を覚えるそうだが、その頃は、他部署に転出していく。これの繰り返し。
 研究阻害以外の何者でもなかろう。

 ビジネスマンが研究者だったら思わす「官から民へ」と叫びたくなると思うが、不思議なことに逆である。
 「官」のお墨付きがない研究は不安なのだろうか。もしそうなら、そんな研究者に期待するだけ無駄である。
 そうでないなら、何故か。ここに切り込む糸口がある。

 話をもとに戻して、特徴のもう1つを見てみよう。

 こちらは結構よく知られている、研究員の評価を避ける体質である。
 どうせ誰もわからないからと、おざなりの評価でお茶を濁してきたのである。
 そのため、最近は評価が重視されるようになってきた。
 海外の評価システムを調べ、できそうなことを真似してそれなりの仕組みが動き始めている。
 これで一歩前進と語る人が多いが、それはなんともいえない。

 実は、述べてきた2つの特徴は無関係ではないからだ。

 両者の根源には、年功序列の仕組みを変えてはならないとの強い意志がある。この問題を避け続ける限り、問題は解決しようがない。

 そもそも、異動してくる管理担当者は年功序列を前提として仕事をしている。当然ながら、研究所管理の専門性を追求する人がいる訳がないのだ。平目のように上層部の動きを眺めるのは当然の仕草と言える。  研究員に対しても、同じ視点で見るのは、極く自然な流れである。その方が管理も楽である。余計なことをする筈もない。

 新しい評価システムが登場しても、この仕組みを強化するものなら、根本的には何も変わっていないと考えた方がよい。管理を厳格化するだけのことである。

 そんな管理をすれば、研究者から改革要求が突きつけられると思ってしまう人が多いかもしれないが、たいていは、そうはならない。
 日本の組織は、現場の不満は労働組合を通して管理側に伝えられるようにできているからである。

 労働組合組織は様々であり、ステレオタイプな見方はすべきではないが、勝手な評価はまかりならぬと主張する点では同じである。
 一見正論だが、ここに落とし穴がある。
 人事考課で差をつけることを阻止したい組合もあるのだ。

 換言すれば、年功序列を守りたいのである。年功序列制度があれば、雇用が守れるという理屈なのだろう。

 つまり、管理側も、被管理側も、年功序列体制を守り続けたいのである。

 要するに、ここを壊さないと一歩も進まない。しかし、そんな主張をしているから改革派と考えると、さらなる落とし穴が待っている。

 日本における年功序列体制とは、その構造を利用して権力をふるうボスの存在と表裏一体である。両者を一気に崩さないと状況は好転どころか、悪化しかねない。

 余談だが、研究の分野では、素人でも一寸調べれば、不思議なことに気付く。
 どうみても議論ができないような質の悪い研究者や、研究に興味を持っていそうにない研究者がいるのである。ビジネスマンなら、時間の無駄だから意味の薄い会合はすぐにやめてしまうが、この分野ではそんなことはできないらしい。日本の研究者は議論しないと見ている人が多いようだが、議論する気になれないというのが実情ではないかと思う。

 どうしてこうなるかは、言わずもがなである。ボスの指示で動くだけの操り人形が食い扶持を稼げる仕組みが出来上がっているのだ。

 こんな状態で流動性向上を図れば、悪貨が良貨を駆逐する可能性が高いと思われる。

 特に曲者は、“専門家”による評価の導入である。
 古いボスが作り上げてきた階層構造を強化しかねないのである。

 改革にとって最初の一歩は、障害の元凶を知ることである。元凶が取り除かれないなら、改革と思って進めている施策は、事態を悪化させる可能性さえある。

 腐敗がどの程度進んでいるかは、大学のマネジメント体制を見れば一目瞭然である。

 典型例をあげよう。(1)

 「実験結果の再現性に疑義がある」と学会から指摘され、大学が調査したのだ。

 結果は予想通り。提出した論文4本すべてで、計画やデータが記載されている実験ノートがない。しかも、実験データが入っているとされているコンピュータをデータのバックアップをとらず廃棄している。
 この大学では、こんなことを一寸調べるだけでも大変なのである。

 なかでも圧巻は、再実験した上で、結果を提出すよう“要請”したとの決定。

 仕事のガイドラインもないようだ。要するに、論文を出しさえすればよいとの不文律がある訳だ。
 こんな調子なのだから、人事がどうなっているかはいわずもがなである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050914k0000m040088000c.html


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