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2009.7.23
 
 


鍋釜合戦・・・

 縄文時代と弥生時代という、土器デザインの違いで歴史を区分するという“学問”を信奉する人ばかりなのにもこまったものだ。一旦決めてしまうと、それを変えると色々な人が迷惑する。それはわからないでもないが、そのままにしていいものかね。
 そこを筋を通したりすると、角がたつから止めておけということ。それを聞かずに、敢えて取り組んだりすると、爪弾きの憂き目。それが日本社会の特徴。

 まあ、名称が土器分類でも、時代の特徴が鮮明なら、それでもかまわないが。そんな些細なことにこだわるのは考え物というのも一理ある。
 しかし、一般人が、縄文と弥生の時代の違いを語れないなら、そんな理屈はなりたつまい。例えば、古墳時代や青銅器時代って、どう位置づくの?と聞かれたらどう答えるつもりかな。
 こんないい加減な区分をいつまで放置しておくつもりなのだろう。

 そもそも、「打製石器→磨製石器→金属器」という時代区分なら、武器や生産用具での革新ということで、時代を画す大変化だと、誰でもが納得できると思う。
 ところが、日本ではそんな合理的な見方とは全くの無縁な区分が通用するのである。「縄文模様がついている土器を使っていた時代→弥生で発掘された装飾性の薄い土器を使っていた時代」という見方を強要されるのである。常識的には、首を傾げたくなる時代区分だと思うが、そんなことを言う人は村八分間違いなし。
 それどころか、弥生“土器”時代は稲作文化に変わったとか、弥生“土器”を使っていた人は、人種も違うとの説が流布されている。それを信用している人ばかりのようだが、本当かネ。

 そもそも、稲は相当古くから渡来していたのではないのか。しかも、渡来の流れは一つではなさそうだ。(対馬、種子島、総社の伝承も、別々のもののようだし。)
  → 「赤米から見えてくる古事記の世界」 [2007年4月17日]

 専門家ではないから、なんとも言い難いが、縄文土器時代にすでに稲作が行われていたと考えるのが自然だと思うが。

 要するに、素人からすれば、“弥生”勢力が、“縄文”勢力を駆逐したという話は信じ難いということ。
 弥生土器技術が縄文土器技術に順次とってかわっただけなのでは。その結果、“キッチン”が変わるので、集落が移転する必要に迫れれることはありそうだが。
 だいたい、稲作と土器を直接結びつけるのは無理ではないか。・・・もし、縄文土器が稲作に向かないというなら、その理由を教えてもらいたいものである。
 それこそ、「ご飯は茶碗で食べるが、パンは皿という話」に近い論理だ。(茶碗のデザインと形態の変遷を調べて、社会全体の動きを推定するのは論理の飛躍しすぎではないか。)

 ビジネスマンなら、多分、“縄文”と“弥生”の土器としての違いは、「釜」と「鍋」のようなものと言い出す。土器の違いとは、その程度でしかなかろう。社会を変えるようなものとは思えないというだけのこと。

 言うまでもないが、「釜」とは、大量の食材を水から煮あげる調理器具。現代では、これを「飯を炊く」と呼ぶ。大量に調理したいなら、「釜」を大型化するしかない。
 「釜」の特徴は、熱が逃げないように、開口部を狭くすること。ただ、近代の釜がそう見えないのは、重い蓋で開口部をふさぐから。ともかく、大量の水を沸騰させる容器なのだ。焚き火の熱が伝わり易いデザインになる。
 荘考えると、土器なら、壷型しかあるまい。これが縄文式土器の本質だと思う。
 一番重要な用途は、多分“藻塩”。貝も対象にしたに違いない。もちろん米も。地域毎に、対象食材は違って当然。
 この基部の問題は、壷を土に立てて加熱するため割れ易い点。それを避けるデザインを追求した筈。その結果、様々な形態が生まれたのでは。それに、割れないおまじないも不可欠だったに違いない。

 一方、「鍋」は全く違うコンセプトの調理器具。現代と違って、食材を煮る容器として登場したものではない。大量の水を沸かすなら、熱効率上、「釜」の方が圧倒的に優れているからだ。
 それではどう使うか。答えは単純。“茹でる”とか、“蒸す”だ。
 要するに、水の量が少なくてすむ調理器具なのである。(「釜」でも、甑を乗せて“蒸す”調理を行っていたと思うが、効率が悪い。)
 湯が沸いた状態で物を投入したり、湯から食材を取り出したりするから、口は広くなる。容器全体も平たいものになる。これが弥生式土器である。
 蒸す場合は、開口部に載せるから、飾り物の突起は厳禁。水だけだから、空焚きに注意すれば割れることは少ない。おまじないは不要だ。ただ、竈のような支える道具には工夫が必要となろう。  つまり、土に埋めてキャンプファイヤーを焚く形式の調理から、キッチン調理に変わる訳だ。こうなると、少量の調理でも、高いエネルギー効率が実現できる。

 こんな風に考えれば、稲作が入ってきたことと、「鍋」調理の間に格別の連関があるとは思えないのである。
 ただ、「鍋」を使えば、米の調理時間が短くなるし、多量に処理できるという、大きなメリットはある。米が沢山とれるようになれば、「鍋」への転換が進むのは自然な流れといえよう。
 これが「釜」から「鍋」への転換の意味ではないかと思うが。

 これを、「鍋」を使う新勢力がやってきて、「釜」を使っていた旧勢力を駆逐したと解釈してよいものだろうか。

 --- 参照 ---
(土器の写真) [Wikipedia]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg


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