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2007.4.17
 
 


赤米から見えてくる古事記の世界

 野生種の特徴を残した米と言うことで、相当前から“古代米”が大流行だ。(1)
 なかでも、赤米は地域おこしの食材と見なされており、様々な取り組みが行われているようだ。

 小生も、赤米や数々の赤米応用製品を、数回、頂戴したことがある。面白いから嬉しいことは嬉しいのだが、味や食感が普通のお米と格段に違う訳ではないから、ファンなったというほどではない。しかし、赤米人気は続いているらしいから、大勢のファンが育ったようである。
 どうしてそこまで赤米に親しみが湧くのか不思議に思い、一寸、調べてみた。

 どうも、郷土史家芦田行雄氏の研究が発端になって、ほとんど絶えかかっていた赤米が復活し、ブームをまきおこしたようだ。(2)
 しかし、それだけなら一過性で終わりそうなものだが、これほどまで長続きするには、なにか理由がありそうだ。

 そうすると、一番気になるのが、赤米が赤飯のルーツだという話。宣伝文には、結構記載されていることが多い。
 だが、このルーツ説には出典表記が無い。それに、もともと、赤は目出度い色だ。食紅で着色した餅や饅頭は珍しいものではない。小豆を入れ赤色ご飯にしてもおかしくあるまい。赤米が祝米だったなら、ずっと作り続けている筈ではなかろうか。
 と言うことで、この説には作り話臭さを感じてしまう。

 ・・・などと訝っていたが、赤米栽培を続けていた神社の由緒を見て、この話は本当ではないかと、思ってしまった。

 赤米神事の伝統を受け継いで来たのは、以下の3社だけ。
  ・長崎県下県郡厳原町豆酘(対馬)にある多久頭魂神社
  ・岡山県総社市新本にある国司神社
  ・鹿児島県熊毛郡南種子町茎永(種子島南端)にある宝満神社

 このうち、対馬の神社は天道信仰。(3)おそらく、朝鮮半島から信仰と共に米が伝わってきたのだろう。これが子々孫々に伝えるべき神事になったといえそうだ。
 一方、総社の神社では、御祭神は大国主命だ。大陸との交流で力を発揮していた日本の土着勢力の長。大国主命が稲作を導入したことを示しているように思える。(4)

 ここまでは、成る程というだけのこと。
 残りの一つ、種子島の神社で、アッと驚かされた。

 対馬や総社と同様に、稲作伝来を神事にしたなら、種子島の地理的位置から考えれば、東南アジアからの海流にのって、島づたいに、稲作が伝わったと考えるのが自然だ。しかも、この稲作神事、森の上で行なわれる。明らかに、我々が馴染んでいる湿地の稲作ではない。(2)
 この米は、現代の米とは由来が違うということ。

 それに気付いて、御祭神の名前を見た瞬間、息をのむ。

 玉依姫だ。(5)
 古事記の世界に一気に引き戻される。
   <<<古事記を読み解く>>> (20051102)〜(20051228) 
       →  「天地開闢」、  「国産み」、  「神産み」、  「天安河の誓約」、  「天岩戸」、  「八俣の大蛇」、 
           「大国主の登場」、  「根の国参り」、  「大国主の国づくり」

高千穂の地に降りた邇邇芸命は、弓と矢の力で、山を制覇し、平地へと進む。盟友は漁業中心の、猿田彦神が率いる伊勢の勢力。そして、岬に宮殿を建てる。そして、大山津見神から、娘の木色咲耶媛をお嫁にもらう。
その息子のうち、山での猟が得意な弟(火遠理命)が、海での漁が得意な兄(火照命)から借りた釣り針を紛失。兄から、どうしても元の針を返せと言われ、火遠理命は釣り針りを探しに海の宮殿へと渡航。
海の神(綿津見神)は、火照命を手厚くもてなした上に、娘(豊玉媛)をお嫁にさしだす。それだけではない。無くした釣り針を見つけてあげ、高地と低地での田圃の作り方と、田に注ぐ水の御し方迄教えてあげたのだ。そして、ワニに送られて、火遠理命は帰還する。
当然ながら、習った米作りを始め、統治者の地位を確立することになる。
しばらくすると、海の宮殿から、妊娠した姫が訪れる。ところが、火遠理命は、産屋を覗かないとの約束を守らない。なんど、姫は大きなワニだったのである。命は仰天。姫はこれを見て海の宮殿に戻ってし まう。代わりに妹(玉依媛)が来訪し、生まれた子供を育てる。
この子供(鵜茅草葺不合命)、成人すると、玉依姫を妃とする。四人の息子をもうけるが、このうち、次男、三男は海外へ。末子(神倭伊波礼毘古命)が天下を治めることになる。高千穂[日向]で力をつけてから、長兄(五瀬命)のアドバイスを入れ、東へと移動して行く。
先ずは、宇佐[豊前]。次が、筑前。さらに、安芸、備前、と続く。その後は海路をとり、摂津、河内へ。ここで大和の兵と衝突し、紀伊にのがれるが、ここで長兄は逝去。神倭伊波礼毘古命はこの後、熊野から深い山を踏み分けて大和に入る。
そして、橿原宮で初の天皇に即位するのだ。

 言うまでもないが、これは、海彦・山彦から神武天皇登場に至る古事記の記載。
 玉依姫とは、海の宮殿からやってきた、初代天皇の生母である。つまり、東南アジアから到来した稲作技術を導入し、半農半漁型文化を日本に広げていったのが、初代天皇ということになろう。

 そのルーツこそ、種子島の神事で用いられる赤米ということになる。

 ここで注意すべきは、稲を含む五穀は、この話以外にも登場する点だ。高天原を追われた速須佐之男命が大気都比売神を殺した時、その死体から蚕、稲、粟、小豆、麦、が生えてくる。
 つまり、異なる稲作方法がすでに確立していたということ。こちらは、総社の赤米神事に受け継がれている出雲型ということだろうか。
 そして、対馬の赤米は天照系と言えるかも知れぬ。

 日本の稲作文化とは、起源も文化も異なる3つの流れを融合したものと言えそうである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.iwate21.net/oryza/oryza55/kodai.htm
(2) 安本義正: 「赤米今昔物語 〜赤米に魅せられて〜」 (1〜8回)  http://www.kyuhaku.com/pr/roji/roji_ys-01.html
(3) http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/tsushima.htm
(4) http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19023 (5) http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0770150.shtml (お話) 鈴木三重吉「古事記物語」  http://www.aozora.gr.jp/cards/000107/files/1530_5502.html#chap7


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