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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.6 ■■■

昆明池と終南山

唐の長安城西側に漕渠流入口がある。この流路と繋がっている訳ではないが、この西数Km先に周囲40里の昆明池があった。前漢の武帝が、B.C.120年に、雲南昆明の池を模して造成させた人工池。水軍の西南諸国討伐訓練用とされる。

すでに、引用[→]したが、もう一度。
【豫章船】巻10 物異
昆明池漢時有豫章船一艘,載一千人。
兵員輸送用軍船なのであろう。

常識的に考えれば、ここらは内陸の乾燥地帯に属しているから、長安城の安定水源池としての役割となるが、どうなのだろうか。
ただ、実際の用途から言えば、帝の遊興施設以外のなにものでもない。現代にまで繋がる、都市庭園文化そのものと言ってよかろう。
昆明池中有神池通白鹿原人釣赫綸絶而去夢於漢武帝斗去釣帝明日戲於池見大魚銜索帝日豈夢所見也取而放之後一日池邊得明珠一雙帝曰豈疏之報耶御覽八百一[暫缺「三輔故事 昆明池」]
隋朝や唐朝ではこの地で宴会が開催されたのから、それなりに維持され続けた庭園だったろうが、唐朝末期になると廃池化し、一気に田圃化が進んだようだ。

人工池の周囲には人工的な植栽と美麗な高層建築物が立ち並んでいたと思われ、およそ道教的な自然のなかに溶け込む思想とは対極的な遊興三昧用環境が整えられたことになる。

そんな文化は現代も廃れていないようで、「西安拉升房地投百亿造28个湖[人民网(北京)2012-09-04]とか。

唐代、有名なのは、牽牛石像と織女石像のペアのようだ。池を挟んで設置されていたのだろう。それに加えて鯨石像も。淡水池で鯨というのもナンダカネだが。
   「昆明池織女石」  [唐 童翰卿]
 一片昆明石,千秋織女名。見人虚脈脈,臨水更盈盈。
 苔作輕衣色,波爲促杼聲。岸雲連鬢濕,沙月對眉生。
 有臉蓮同笑,無心鳥不驚。還如朝鏡裏,形影兩分明。

   「冬日臨昆明池」  [唐 李世民(太宗皇帝)]
 石鯨分玉溜,劫燼隱平沙。柳影冰無葉,梅心凍有花。
 寒野凝朝霧,霜天散夕霞。歡情猶未極,落景遽西斜。

   「秋興八首 其七」  [唐 杜甫]
 昆明池水漢時功,武帝旌旗在眼中。織女機絲虚月夜,石鯨鱗甲動秋風。
 波漂菰米沈雲K,露冷蓮房墜粉紅。關塞極天唯鳥道,江湖滿地一漁翁。


そのような扱いの地域であるにもかかわらず、成式が収載した伝説は墓の話。
【渾子塚】續集卷四 貶誤
昆明池中有冢,俗號渾子。相傳昔居民有子名渾子者,嘗違父語,若東則西,若水則火。病且死,欲葬於陵屯處,矯謂曰:“我死,必葬於水中。”及死,渾泣曰:“我今日不可更違父命。”遂葬於此。
何事にも父の言葉に逆らう天邪鬼な息子がいた。東なら西、水だと火といった具合。そこで、病で死期を悟った父親は「水中に葬ってくれ。」と。もちろん、陵に埋葬して欲しかったからである。ところが、その息子、涙を流し、「今日だけは、遺言の命令に逆らえない。」と、その地に埋葬。
その塚には、息子の名前がつけられた。
しかし、池といっても、浅くなっている箇所も多かったろう。そこを墓場にしたということか。
しかし、墓場で遊興もなかろうが。成式先生、ここは、そろそろ、遊興地としての役割はオシマイになると見抜いていたのであろう。

池に生えていた水草は、もっぱら菱だったようである。
巻19 廣動植類之四 草篇
今人但言菱,諸解草木書亦不分別,唯王安貧《武陵記》言,四角、三角曰,兩角曰菱。今蘇州折腰菱多兩。成式曾於荊州,有僧遺一鬥郢城菱,三角而無傷,可以節莎。,一名水栗,一名。漢武昆明池中有浮根菱,根出水上,葉淪沒波下,亦曰青水。玄都有菱碧色,状如飛,名翻,仙人鳧伯子常采之。
十把一絡げで「菱」と呼ぶな、と。その通り、素人が見ても、様々な種類がある訳で。流石の一言。もちろん、実の形で分類することになる。
 <四角系>四角菱,四角矮菱,短四角菱,四角大柄菱
 <両角系>格菱,南昌格菱.無刺格菱
 <三角系>菱
 <他>
  四瘤菱、八瘤菱
  冠菱、弓角菱、耳菱、無角菱
 <ヒメビシ>野菱,細果野菱
 <トウヒシ(両角)>越南菱,台湾菱
 <満州のヒシ>東北菱
 <日本のヒシ>丘角菱

ヒシの実は水に晒して灰汁を抜き塩茹ですることが多い。中秋の頃の食べ物だし、皮剥きが面倒とくる上に、澱粉質で味も似ているから、「水栗」とは言い得て妙と、成式先生としてはまとめた名称ならそちらをお勧めしたいということか。

色は、青、紅、紫があるようで、昆明池産は青だったのだろう。浮草なので、流れが無い池でないと繁殖できないが、清冽な水でないと駆逐されてしまうから、人工池の割には湧き水が多かった可能性もある。

最後のパラグラフは道教話。仙人食になっているのは、それなりに滋養ありということと解釈しておいたら、との付け足しだろう。
[出典] 有玄都翠水,水中有菱,碧色,状如鷄飛,亦名翔鷄菱。仙人鳧伯子常遊翠水之涯,採菱而食之,令骨輕,兼身生毛羽也。 [後漢 郭憲撰:「漢武洞冥記」]

ただ、同時に気がかりな話もしている。藻が繁殖しているというのである。浅い澱んだ場所であるから、ヒシとは場所的には重ならないとはいえ、池の水質は劣化しているというか、富栄養状態化が進んでいることを指摘している訳である。
【水網藻】巻19 廣動植類之四 草篇
漢武昆明池中有水網藻,枝側水上,長八九尺,有似網目。鳧鴨入此草中,皆不得出,因名之。
緑藻類のアミミドロ(網深泥)。小魚はひっかかると言われているが、鳥類が網の目に引っ掛かって死ぬというのはオーバーである。現代のエコ運動家と似たところがある。

人工池だから、古代からの伝承話がある訳もないが、道教国であるから、その手のお話はすぐに生まれる。当然ながら、池の南の終南山と関係づけたものになる訳である。
【昆明池水位】巻2 玉格
孫思嘗隱終南山,與宣律和尚相接,毎來往互參宗旨。時大旱,西域僧請於昆明池結壇祈雨,詔有司備香燈,凡七日,縮水數尺。忽有老人夜詣宣律和尚求救,曰:“弟子昆明池龍也。無雨久,匪由弟子。胡僧利弟子腦,將為藥,欺天子言祈雨。命在旦夕,乞和尚法力加護。”宣公辭曰:“貧道持律而已,可求孫先生。”老人因至思石室求救。孫謂曰:“我知昆明龍宮有仙方三千首,爾傳與予,予將救汝。”老人曰:“此方上帝不許妄傳,今急矣,固無所吝。”有頃,捧方而至。孫曰:“爾第還,無慮胡僧也。”自是池水忽漲,數日溢岸,胡僧羞恚而死。孫復著《千金方》三千卷,毎卷入一方,人不得曉。及卒後,時有人見之。
薬上真人と呼ばれ、医書「千金方」30巻を著した神仙家 孫思[581-682年]が登場する。出仕せず太白山に隠居。すでに医の項で書いたが医者の地位は極めて低く、試験がお好きな風土の割には、資格を作ろうとはしなかった道教帝国での医師であることに注意を払う必要があろう。
医書は腐るほどあったろうから、成式は当然のこととしてほとんどに目を通していた筈。そして、実際の医療行為を鋭い"観察眼"で眺めていたろうから、民で行われている医療行為が圧倒的に質が高いことを見抜いていたと思われる。といっても、ピンキリだろうが、孫思を高く評価していたのは間違いないだろう。と言うのは、人命は貴く千金の価値ありと考えるべきで、先ずは緊急的にハウツー型対処療法で対応すべしとの主張には感ずるところ大だったろうから。この手の医療には問題はあるものの、成式が評価するような有能な医師の数は限られているから、功罪を考えれば、功が勝ると考えておかしくない。
稱其少時,周洛州刺史獨孤信稱為聖童。及長,隱居太白山。---思嘗謂人命至重,貴於幹金,--- [唐 孫思:「備急千金要方」]
終南山に隠居していたのかは定かではないが、ありえそうな話である。100万の人口を抱える長安近辺にいなければ人命を救うといっても貢献しようもないし、漢方処方用の草木茸の採取には便利な場所だったと思われるから。
道教の仙術師のイメージを感じさせる書き出しでありながら、すぐに仏教僧と懇意であることを言いだしているのは、孫思が道儒仏三教一致を目指していることをほのめかしているだけのこと。(五台山を薬王山と呼ぶことがあるのは、孫思の医薬書の碑石があるからだが。)
珍しいことだが、成式は祈雨行為を通じて、主張を展開している。ドグマに固まるだけの費用ばかりかかる西域僧より、仏教経典をしっかり読んで自らの生活指針に生かしている民間人の方が圧倒的に社会に役に立つと語っている訳である。
ヒシで述べたように、昆明池は掘削池であるが、湧き水が豊富である可能性が高い。乾燥地帯では降雨祈願せずとも、上流の雪解けが期待できるなら、その伏流水でいずれ水源池は満杯になるもの。そんな初歩的な知識も欠くドグマ論者は無用の存在とも指摘している。

終南山の話が出たので、そこも見ておこう。
標高2,600m程度だが、秦嶺山脈の代表的山であり、詩によく詠まれる。有名なのはコレだろうか。樵がでてきて、道教的雰囲気芬々なところが喜ばれるのであろう。
   「終南山」  [唐 王維]
 太乙近天都,連山接海隅。白雲迴望合,青靄入看無。
 分野中峰變,陰晴衆壑殊。欲投人處宿,隔水問樵夫。


「酉陽雑俎」では、占術に長けている仙人のの話が登場する。比較的長いので、関係する一行だけ引用しておく。
【終南山人気】巻2 壺史
又曾居終南,好道者多蔔築依之。崔曙年少,亦隨焉。伐薪汲泉,皆是名士。
732年の長安訪問時には、朝廷の高官が群れをなして面会に訪れたそうだ。従って、弟子になりたいミーハーは数知れず。終南山に住む者多数となったのであろう。

その山だが、棲息種が気になるところ。・・・

【菘節鳥】巻16 廣動植之一 羽篇
,尾似鼠,形如雀,終南深谷中有之。
再掲。 [→羽 (難物)]

【碎車蟲】巻17 廣動植之二 蟲篇
状如聊,蒼色,好棲高樹上,其聲如人吟嘯,終南有之。一本雲,滄州俗呼 為掻前,太原有大而K者,聲聊。碎車,別俗呼為沒鹽蟲也。
森林棲の蝉の一種であろう。声をどのように文字で表現するかは、地域によって異なるが、車が道を通る際の音に似ているということなのだろう。成式には聊が一番ピンとくるのかも。色から見ると、黒と青のミンミン蝉系統であろう。形状が普通の蝉らしくない変種がいるのかも知れない。この蝉の成虫は暑さは苦手で、幼虫は比較的乾燥する地を好む。終南山は生育環境として申し分なさそう。

【天巻19 廣動植類之四 草篇
生終南山中。葉如荷而厚。
単なる里芋である。蓮の葉のようと見れば、そう言えなくもない。乾燥地帯では、芋の種類は限られるが、熱帯には五万と種がある。特に水辺の里芋は分化が凄まじい。
超古代人が南方から持ち込んだ異種が色々と存在しているのかも。

奇異譚は多かった筈だが、収載する気はなかったと見える。ただ、鍾乳洞の話だけはとりあげたかったと見える。
【終南山】続巻2 支諾皋中
有人遊終南山一乳洞,洞深數裏,乳旋滴瀝成飛仙状,洞中已有數十,眉目衣服,形制精巧。一處滴至腰已上,其人因手承漱之。經年再往,見其所承滴像已成矣,乳不復滴,當手承處,衣缺二寸不就。
今村与志雄の指摘は流石。ここは、敦煌千仏洞の壁画の飛仙を想い浮かべるべきと言うのだ。確かに。
おそらく、眺めているだけで、深い思いが自然に湧き出てくるのであろう。情緒的に、なにか有り難い気分になってしまうのかも知れぬ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
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