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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.12 ■■■

續集序

すででに記載した話の一部を再掲させて頂く。・・・
"この書名だが、重慶酉陽の地の伝承から採っている。
ご高承の通り、相傳山の麓に石穴があり、その中に千卷の書が秘蔵されていると言われているお話のこと。言うまでもないが焚書逃避文献。まさに隠された宝の山である。誰も探そうともしないようだが。"
  [→] 序で垣間見える思想[2016.3.6 ]

この出典をママで示しておこう。(句読点無し。)
  「酉陽」
梁湘東王書酉陽之逸典荊州記小酉山石穴中有書千巻相傳秦人於此學因溜之

書名は葉廷珪:「海砕事巻十八 文學部上」@欽定四庫全書 子部。この序には、典拠確認無しの読書メモに過ぎぬとわざわざ記載してあるから、学者は利用を躊躇する手の本。なにせ、上記のような断片がズラズラ並んでいるだけだし。しかし、出典に触れており、ママの語彙引用だから貴重な情報である。

この同じ巻に、「酉陽雑俎」の話が登場する。当然ながら、今村与志雄は"續雜俎序"と記載している点に大いに注目。
  「異議神緘」
 段成式續雜俎序云怪非鬼議博異神緘

この文章が佚文なら、続編は後世の編纂者が作ったものではないことになるからだ。もちろん、それなりの序文もあったのである。

続編をどう見るかは結構難しい。
と言うのは、[續集卷五/六]「寺塔記上/下」と[續集卷七]「金剛經鳩異」が前集20巻とは全く違うトーンで記載されているから。素人でも、異なる本を合本したかに感じる程なのだから。従って、ココは、後世の編纂者が勝手に入れ込んだと解釈しがち。
ところが、その一方で、、他のパートでは「貶誤」という表現が用いられているし、「支諾皋、支動、支植」の「支」との表現は、いかにも成式らしさ芬々。どういうことかネとなる訳だ。
しかし、間違いなく、続編に序文があるとなればすべてが氷解。
すでに出した本の改訂再録との記載があっただろうと、納得できるからである。そこには、"酉陽"感についての一言もあったかも。ソコが問題で序だけが消失した可能性もあろう。

だが、そんなことを考える人は、おそらく極く僅か。

そんな僅かな方々の筆頭は、言うまでもなく、翻訳者 今村与志雄[1925-2007年]である。
単なる訳にもかかわらず、考証学者がまとめたような詳細な注がついているが、それはそれなくしては、この本の価値が全く伝わらないから。どうして、そこまでするかと言えば、この本の意義を魯迅を通じて理解したからだと思う。
そう、この方は古代書の研究者ではなく、魯迅研究者なのだ。魯迅はこの本を中国文芸史上極めて重要と評価しているが、実際に、愛読者だったようなのだ。研究者としては、そうなれば、徹底的に読み込みたくなるのは当たり前。(ここでの"当たり前"は、あくまでも小生の論理的帰結であって、そうではない研究者の方が"当たり前"。)

但し、魯迅にしても、今村にしても、評価には慎重。世評では、「酉陽雑俎」が怪奇譚を収録した博物学的書物であり、それをあえて否定するようなことはしていない。
それは、全巻を通して読めば、とうていそんな書とは言えそうにないことなどすぐにわかるだろうと見ていたからだ。それがわからないお方は余程の鈍感か、怪奇譚を話題にして嬉しいマニア、あるいは政治的な輩と考えていたのだと思う。
それに、續集だけ見れば、怪奇譚を集めようという気がさほどなさそうな本に映るし。

だが、現実は逆。

今村与志雄は"刊本の沿革"を詳細にまとめているが、明/清代の校注者である、書家、地理学者、考証学者でさえ、成式の著述意図について触れていないようだから。
つまり、「酉陽雑俎」とは、怪奇譚をバラバラと収録した晩唐の書と見なしているということ。せっかく残存した書だから、復刻しておこうとなっただけ。

ただ、薄々気付いていた校注者もいたようだ。今村与志雄がわざわざ清代の考証学者 労権の手校@《汲古閣本》本を抄録しているからだ。その最後の一言の訳文が、それを示唆している。・・・"校勘とは、かくもむつかしいものか。"
そうなのである。耳にした怪奇譚を集めたのではなく、出典が確かな話を選んで、成式の問題意識からそれを加工し、できる限り簡潔な内容に仕上げてあるので、注を作るということは成式が何を考えているか想像しないと無意味なコメントをつけてしまうことになるのだ。
これ以上のエスプリを効かせた書は世の中に無いほどの、たいした作品なのである。

そんな状態だが、そのことに気付いた例外的学者は少なくとも一人はいる。南方熊楠である。

今村与志雄が指摘するように、成式は「荒唐無稽」なお話を信じるような人ではない。しかし、この本には、"「荒唐無稽」としか言えないところがある"訳で要するに、そんな見方を可笑しいとも思わないで受け入れているのが社会の実態なんだヨと語っているということ。
およそ馬鹿げた話に映っても、それは受け入れざるを得ないのだ、と主張しているのである。よせよ、馬鹿げたイデオロギー対立はということでもあろう。
問題は、この「荒唐無稽」な話自体にあるのではなく、これを利用して社会の多様性を殺そうとする動きや、非寛容的な姿勢。しかも、そんな動きは、支配者層だけでなく、被支配者層にもあるので、そこをよく考えて対処すべしと主張しているのである。

中華帝国では、これは危険思想のイの一番。
天子が認定した異端を徹底排除することこそが"中華思想"なのだから。その完璧な抹殺を請け負うのが官僚組織であり、儒教・道教・仏教の都合のよい部分を合わせて、官僚の施策を正当化するのが学者の仕事と言えよう。
成式とは、図書館担当官僚から始めて儀式担当高官に任官されたにすぎず、こんなことを表立って言えば首が飛ぶ訳で、なんだかえらく難しい書だネという評価もあるようだが、それは100%正しい。

書名から見て、大いに問題視しているのは「禁書」の動き。中華思想とは切っても切れぬ施策だからでもある。「酉陽雑俎」とは、それを120%理解した著者が禁書を逃れる算段として、「小説」風に書き下ろした書なのである。
 [→] 「禁書体質は永遠に続く」[2014.8.4]

(参考邦訳)
段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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