表紙
目次

📖
■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.1 ■■■

消しさられた西明寺

長安の西明寺は「酉陽雑俎」には登場しない。
長安仏寺歴訪随筆「寺塔記」を収載しておきながら、仏教文化の最先端を担っていた巨大寺院を無視しているのである。 [→「廃墟寺巡礼」]
高宗/武則天が、没収した隋代尚書令の楊素の邸宅跡に656年創建の官寺だというのに。

思うに、世界最大級の伽藍の面影も失せてしまい、見るに見かねる状態であり、取り上げる気がしなかったのでは。
 845年:会昌の廃仏
 847年:宣宗が復興 福寿寺と改名

と言っても、なんとなく西明寺を示唆するような箇所は存在する。 [→「天竺から帰還の倭僧」]
類い稀なるインターナショナルなお寺だったからである。
実際、多くの渡来僧が居住している。
 疏勒国僧:慧琳
 密教インド僧:善無畏,金剛智,不空
 倭僧:道慈,永忠,空海,円載,高岳親王,宗叡
 新羅王族出身僧:円測
 朝鮮僧:神ム,圓測,勝庄

しかし、その運命は過酷。廃墟化され、二度と再建されることはなかったのである。
 904年:完全解体(材は渭川経由で洛陽へ.)
現在、その跡地は住宅等に利用されており、発掘調査が行われたものの、ほんの一部。全体像は未だにわかっていない。

この西明寺だが、延康坊西七条の南西側約四分の一を占めていたと言われる。牡丹の花で有名であり、一般開放されていた。・・・
 「西明寺牡丹」 
花向琉璃地上生,光風R轉紫云英。自従天女盤中見,直至今朝眼更明
 「西明寺牡丹花時憶元九」 白居易
前年題名處,今日看花来。一作芸香吏,三見牡丹開。
豈独花堪惜,方知老闇催。何况尋花伴,東都去未回。
知紅芳側,春尽思悠哉。

 「重題西明寺牡丹」 白居易
往年君向東都去,曾嘆花時君未回。今年况作江陵別,惆悵花前又独来。
只愁離別長如此,不道明年花不開。

 「新楽譜牡丹芳 美天子憂農也」 白居易
牡丹芳,牡丹芳,---衞公宅静閉東院 西明寺深開北廊。---

しかし、ここは花の寺というよりは、祇園精舎模造の一大官寺だったのである。もちろん、設立責任者はそれを知る玄奘。高宗/武則天の章懐太子病気平癒祈願を旨とした勅諭寺だ。
間違いなく、壮大な伽藍建築。・・・
其寺面三百五十歩,周圍數里。左右通衢,腹背廛落。青槐列其外,水其間,耽耽,都邑仁祠此為最也。而廊殿樓臺,飛驚接漢,金鋪藻棟,眩日暉霞。凡有十院,屋四千餘間。莊嚴之盛,雖梁之同泰、魏之永寧,所不能及也。 [慧立:「大唐大慈恩寺三藏法師傳卷第十」]@大正新脩大藏經 by CBETA 中華電子佛典協會

そして、仏教文化の牽引者として訳経所の役目も担ってきたのである。
 657年:落慶 上座:道宣、寺主:神泰、維納:懐素
 683年:「仏頂尊勝陀羅尼経」仏陀波利[インド僧] 訳
 703年:「金光明最勝王経」義浄 訳
 717年:「虚空蔵求聞持法」善無畏 訳
 788年:「大乗理趣六波羅蜜多経」般若 訳

つまり、中華帝国における仏教教学の核心的地位にあったお寺であり、反仏教勢力にとっては目の上のたん瘤そのもの。再建などさせてはならぬのである。
それと同時に、この伽藍の景色と言うか、伽藍の中心が庭園に映る点が、大いに気に喰わなかった可能性もあろう。それは、中華帝国思想と真っ向から対立するコンセプトということで。

当時の庭園と言えば、基本的には帝室/官僚所管。
狩猟/競技/管弦舟遊び等々が可能な広大なものに決まっていた。同時に動植物園/果樹園の地でもあり、許された者のみが遊べる場所。三内(大明宮,大極宮,興慶宮)+三苑(東内苑,西内苑,禁苑)がそれに当たるのであろう。
当然ながら、高級官僚も、それにならった庭園附きの大邸宅を造ることになる。

西明寺庭園は、そんな私家の跡地利用。従って、そこには、立派な庭園が造成されていた可能性が高かろう。ところが、そんな場所を、身分に関係なく、自由に牡丹観賞させたりしたら、それはまさに危険思想そのもの。(仏教徒の白楽天にしても、庭園開放を賞賛している訳ではない。ただ、長安南東の芙蓉圓/曲江池の一般開放には積極的だったと思われるが。)
白楽天の愛好する庭と言えば、所謂、文人別邸タイプであって、自然にまかせた風情の簡素なもの。支配階層が嬉しがるご立派なお庭とはおよそ対極的。
成式の邸宅にしても、その中心は竹林で、似たような嗜好。

そんなことを考えると、教学の粋を誇った官寺のことだから、庭園も新しい息吹を感じさせるものだったのではなかろうか。
おそらく、それは浄土庭園。大陸には、痕跡さえ残っていないが、日本では大流行したコンセプトである。今では、その源流は敦煌の壁画でしか見ることができないが、長安を介さずに、浄土の景色が伝えられたとは思えない。つまり、その役割を果たしたのが西明寺庭園なのでは。
宇治の平等院鳳凰堂から察するに、"蓮"池を中心とする浄土庭園あってこその伽藍とのコンセプトが提起されたということ。実際、先の元には牡丹詩でなく、蓮池詩もあるのだ。・・・
 「尋西明寺僧不在」 
春来日日到西林,飛錫經行不可尋。蓮池旧是无波水,莫逐狂風起浪心。
寺院には、"池"と木々が生える庭が不可欠とされたかも知れぬ。それが、仏教説話と合体すると"放生池"となる訳で。

マ、それを「酉陽雑俎」[續集卷五/六 寺塔記上/下]から読み取れるか否かは、単に、読者の好みに依ると言えなくもないが。・・・
【光明寺】
山庭院,古木崇阜,幽若山谷,當時輦土營之。

【大興善寺】
寺後先有曲池,不空臨終時,忽時涸竭。至惟ェ禪師止住,因潦通泉,白蓮藻自生。

【趙景公寺】
三階院西廊下,範長壽畫西方變及十六對事,寶池尤妙絶,諦視之,覺水入浮壁。

【招福寺】
寺内舊有池,下永樂東街數方土填之。今地底下樹根多露。長安二年,内出等身金銅像一鋪,並九部樂。

【楚國寺】
中門内有放生池。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4/5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>>    トップ頁へ>>>
 (C) 2016 RandDManagement.com