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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.11 ■■■

阿修羅はインドの古代神

阿修羅の扱いは、成式ならずとも気になるところ。
   「阿修羅の実像」

帝釈天傘下の32天の天人軍勢に、四天王の軍勢が加担するという須弥山総出で、修羅族を叩きのめした訳だが、そこには文化の違いがあるということのようだ。
海-河川-湖-池の文化に染まっているのが修羅族。

阿修羅有一切觀見池,戰之勝敗,悉見池中。

前述した特徴から見て、不死を約束された気高き天人だったのは明らか。帝釈天登場の前は水の神として他の神々の頂点に立っていた可能性が高かろう。ガンジス河やインダス河支流の女神以前の信仰臭を感じさせるからである。もしそうだとすれば、インド土着の一番古い神かも知れぬ。ソリャ、新興勢力の新しい神が出てきて、そのヒエラルキーの中に入れと言われても無理難題に近かろう。
結局のところ鬼にされてしまったものの、他の鬼とは出自が全く違うゾと、成式先生が注意を喚起している訳だ。

対する帝釈天大連合軍とは樹木信仰を核としており、由緒ある林を本貫地として守り通す体質ということになろう。仏教勢力も分類すれば、ここに入る。それを忘れない方がよいヨとのアドバイスのパラグラフとも言えよう。
・・・仏教の象徴は仏像ではなくストゥーパ(塔婆)だった。正方形の平地の周囲を垣で囲って聖地とし、東西南北に門を配置し、薄い円筒状の台上に饅頭を載せた形にするのが基本。その天辺には必ず貴人存在を示す傘と樹木の表象がつく。この形式だが、仏教に帰依した、須弥山に住む帝釈天崇拝を踏襲しているように思える。ともあれ、この墳墓が存在することで、ここは修羅族の地ではないことを示している訳だ。言葉や風習は違っていても、安心して滞在できる地を意味する。交易商人にとっては有り難いこと。寄進によって大型化と装飾の細密化が進んで当然である。言ってみれば、土着の帝釈天信仰ではなしとげられない国際化を、仏教が果たしたことになろう。
貝篇を読み進んでいると、それを、上記の一行から読み取ることができるのである。

続いて、天人についての記載。

持天,鏡林中,天人自見善惡因縁。
正行天
[=箜篌天],頗梨樹,見人行法與非法。
留博天,常於此觀之。


ここでいかにもブラックなのが、三十三天/利天の扱い。
「人間⇔天人」の"転生"が繰り返されるのだが、七転び八起きるならぬ、八起無し。一体、どういうコッチャ。
戦争を仕掛け、大いに繁栄し、悔い改めてということの繰り返しも7回までだゾということなのだろうか。

利天及人中七生事,見於殿壁中。

33天が樹木信仰に耽っている例を駄目押し的に追加。

無法第八生波利邪多天,有波利邪多樹,見閻浮提人善不善相。
行善則照百由旬,行不善則雕枯,半行善則半榮。微細行天,寶樹枝葉悉見天人影像,上中下業亦見其中。


ここで、成式のお話は完了かと思いきや、オマケがある。帝釈天の統括する三十三天社会の上についても一応触れているのだ。
「人間⇔天人」が成り立たなくなるとどうなるかを示唆しているのかも。他の三道(餓鬼,畜生,地獄)に堕ちるということを意味するのだろうか。

閻摩那婆羅天,娑羅樹中見果報。其殿如鏡,悉見天人所作之善果報。又第二樹中有千柱殿,有業綱,諸地獄十六隔劇,悉見其中。
夜摩天,撫垢鏡池,池中見自身,額上所見過,見業果。又閻浮那施塔影中,見欲界罪福及三惡。


以下に示すが、最後の一行は性格が違う。次のパラグラフの冒頭と言えないこともないが、成式の見方の開陳のような気がする。
色々あろうが、小宇宙の天変地異現象を冷静に眺めることの方が、宇宙を理解することに繋がるのではなかろうかと。

趣言天象異者,若有將食肥膩水,鳥下飛,日將蝕,諸方赤。

この一言で、スムースにお話が次に続くことになる。この先は二十八宿についての記述である。
   「星祭り」

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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