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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.12 ■■■

信仰

阿修羅を古代の水神であると書いていて、フト気付いたことがある。
   「阿修羅はインドの古代神」, 「阿修羅の実像」
そういえば、イモリの話があったなと。・・・

王彦威尚書在州,二年,夏旱,時袁王傳季,因宴王以旱為言,
季醉曰:
 “欲雨甚易耳。
  可求蛇醫
[=蠑/イモリ]四頭,
  十石甕二枚,毎甕實以水,浮二蛇醫,
  以木蓋密泥之,分置於閑處,
  甕前後設席燒香。
  選小兒十已下十余,令執小青竹,
  晝夜更撃其甕,不得少輟。”
王如言試之,一日兩夜雨大註。
舊説龍與蛇師為親家焉。
  [卷十一 廣知]

酔っぱらいの戯れ話を、真に受けてやってみたら大当たりの図。
酔いが醒め、それを聞いてビックリだろうが、すかさず、これは霊験あらたかな天竺渡来の降雨祈祷法と上奏したのであろう。
成式と仲間でこの話をして、思わずワッハッハだったろう。

だが、どうしてこんな思い付きが出てきたかも、ポイント。もちろん、成式先生ご存知の筈だ。

おわかりだろうか。
イモリとは実は阿修羅。

トカゲ類は脅すと尻尾を切り離す。それが動き回るので気を取られているうちに逃亡してしまう。そこまでしなくても、逃げる動きは素早いが。
イモリは形態は、トカゲそっくりだが水棲であり爬虫類ではない。こちらは、手足が切れても再生してくると言われている。おそらく、これは脊椎動物の基本機能だった筈だが、それを捨て去ることで何らかのメリットを得た種が主流になったのである。小生は、イモリのそんなシーンの映像を見たことはないが、教科書に掲載されているから間違いなさそう。

そして、どうも長寿動物らしい。
日本のイモリの場合だが、飼育者に言わせると、暑さに晒したり、水を切らしたりさえしなければ、滅多なことでは死に目に合うことはないらしい。
コレ、斬首か腹で真っ二つにしないと死なないという阿修羅の特徴とウリ。
呪術では、お香を焚くが、香木粉末を外用薬にする習慣を想起させるものがあろう。
そうそう、イモリが好む環境は、澄んで綺麗な水で、流れを感じさせない、静かで落ち着いた池のよう場所である点にも注意を払っておく必要があろう。

もともと、古代の最高神は池神だった可能性が高い。なにせ、帝釈天連合軍 v.s. 阿修羅の大戦争に知らん顔だった上位の神は、樹木信仰ではなさそうなのだ。

夜摩天,撫垢鏡池,池中見自身,額上所見過,見業果。

しかし、池信仰は樹木信仰に主導権を奪われる。言って見れば、インダス・ガンジス等、それぞれの河神が躍り出たということだろう。

そんな風に考えていくと、成式の洞察力は鋭いものがあることに気付かされる。

インドでの神話は、その時々の権力者の思想に応じて、どうにでも変化できると指摘しているようなものだからだ。一般には、神話は、民衆の精神的底流を現しているとされるが、そうではないということになる。・・・阿修羅は池の神であり、戦争技術ありきの集団の信仰対象であるところからみて、西北のオアシス地方からやってきた侵略者なのは間違いなかろう。もともとはその卓越した集団の最高神だった筈。にもかかわらず、鬼神とされてしまったのだ。これは、河の神文化に吸収されたことを意味する。驚くことに、侵略者側の神が成り立たない社会だったのである。
何故、そんなことが可能かと言えば、インドでは、娑婆と独立した天人世界を思い抱いているからだろう。そのため、記述にどのような矛盾があろうとも気にならないのである。従って、いつでもご都合に合わせて自由に変更可能なのだ。善神が突然惡神になろうが、又、元に戻ろうが、誰もそれが不自然とは感じない社会ということ。中華帝国のように、まずは史書ありきではそうはいかないし、転生概念が常識化している社会だからこそ可能なわざということ。
中華帝国は社会統治という観点からの道徳倫理感は深く追求されるが、血族"命"以上の思想がある訳ではない。繁栄とは子孫が権力を握れるという以上のものではないのだ。従って、思想と言うか、哲学第一主義のインドの真似などできようがない。仏典をただただ翻訳し、中華帝国発展と血族主義を強める形での改訂を行って導入していく以外に手はない。
成式は、原始仏典を読んだ瞬間、それに気付いたのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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