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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.9.27 ■■■

参軍戯

「卷六 樂」には、719〜741年頃の琵琶話が収録されている。子息 段安節の「琵琶録」にも出てくる音楽手習いについての一文。
   「音楽の本質」

器楽について触れたのだから、演劇についても一言あってもよさそうなものだが、無視を決め込んでいるようだ。
そんな風に見てしまうのは、唐代は、「参軍戯」と呼ばれる滑稽劇が盛んだったとされるからである。基本形は、主役"参軍"と脇役"蒼鶻"のかけあい問答だが、次第に音楽や舞踊も組み込まれ、大いに流行ったそうだ。
但し、その目的は、もっぱら、儀式の余興。演ずるは、もちろん。百戲の"俳優"。と言っても、官だけでなく民の要求にも応えていたと思われるが。

しかし、中華帝国の特性から考えれば、官僚統制化に置かれていたに違いない。
それがわかるのが、すでに取り上げた成都での俳優の話。
成都乞兒嚴七師,幽陋凡賤,塗垢臭穢不可近。言語無度,往往應於未兆。
居西市悲田坊,常有帖衙俳兒幹滿川、白迦、葉珪、張美、張等五人為火。七師遇於途,各與十五文,勤勤若相別為贈之意。
後數日,監軍院宴滿川等為戲,以求衣糧。少師李相怒,各杖十五,遞出界。
凡四五年間,人爭施與。毎得錢帛,悉用修觀。
語人曰:“寺何足修。”方知折寺之兆也。今失所在。
  [續集卷三 支諾皋下]
会昌の廃仏棄寺を予想していた、人々救済を旨とする悲田坊の乞食僧に焦点を当て、すでに取り上げた箇所である。[→] ここでは、弾圧された俳優の方に目を向けてみよう。

状況からみて、監軍院での宴に呼ばれたのであるから、"児"ではあるが、階層は極めて低いとはいえ「官」として職位が与えられていたとみるべきだろう。
当然ながら、僅かではあるが公的に支給があった筈である。

しかるに、芸の対価を要求したため、官僚は怒り狂って鞭打ち刑と相成ったのだろう。滑稽劇にしても、政治的風刺がすぎたのであろう。一同大笑いでも、高官は不快感の極限だったのかも。高級官僚になればなるほど、その手の御仁は少なくないだろうし。

さて、その唐代に始まったらしい「参軍戯」だが、段安節:「楽府雑録」の"俳優"篇に以下の解説がある。
開元中,黄幡綽、張野狐弄参軍−始自后漢館陶令石眈。
眈有贓犯;,和帝惜其才,免罪。
毎宴樂,即令衣白夾衫,命優伶戲弄辱之,経年乃放。
后為参軍,誤也。

後漢代、館陶縣令の石眈が、官物横領罪で流罪の裁が下ったが、和帝[在位:88-105年]がその(諧謔)の才を惜しんで免罪に。そのかわり、毎宴席での楽しみとして、(道化姿の)白衫を着用させ、優伶による戯弄で辱しめることに。
数年を経て解放され、後に参軍となった。
これが「参軍」と呼ぶようになった言われの一説だが、誤りである。

開元中,有李仙鶴善此戲,明皇特授韶州同正参軍,以食其禄。是以陸鴻漸撰詞雲“韶州参軍”,盖由此也。
開元中のこと。
李仙鶴の戲の演技が素晴らしかった。そこで、明皇
[玄宗]が特別な計らいで韶州同正參軍を授けた。
そこらが參軍の発祥との説ありと。


唐代に、諧謔芸が内容的にもかなり変わり、自己主張的な表現が増え、それが帝のお気に召せば「參軍」の地位を頂けるまでになったということのようだ。
逆に言えば、内容的に政治風刺は薄まって、帝のクスグリ芸が増えたということだろう。芸に磨きがかかったのは間違いないが、成式が関心をよせないのは当然かも。

(参照) 岡本不二明:「唐參軍戲脚色考」日本中國學會報 第五十四集
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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