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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.3.2 ■■■

一七言対句釈詩

四言両句の連歌を解釈してみた。五言や七言を破る斬新な取り組みである。[→]
勝手に題すれば「釈象十句」となろうか。

さらにアバンギャルド的な詩もあるので、続けて取り上げてみたい。
ただ、こちらは、今村注記だけでは途方に暮れるほどの難解さ。

と言っても、見慣れない言葉だらけだから、検討するのが厄介というほどではない。
ここらは誤解される方が多いようだ。なまじっか知られている語彙が入っていると、とても検索どころでなくなるので、そうでない方が気楽なのである。(商品名、店名、書籍名、綽名、等々の山にぶち当たると、砂山から針一本探す羽目に陥る。)

マ、それはどうでもよい話で、ここで対象とする詩は「卷五 寺塔記上」に収載されており、「題公院」と名称もついている。

光明寺の話として以下の記述がある。・・・

上座公院,有穗柏一株,衢柯偃覆,下坐十余人。

尚、小生は、【閑明坊東十一条】の寺とみなしたが、[→] 定説では、【長楽坊東一条】の東側半分以上を占める大寺院の「大安國寺」に関する著述部分に「光明寺」という名前が紛れ込んだと解釈するらしい。理由は調べていない。

公院については、たったこれだけしか触れていないのだが、穗柏に関する詩と、以下の詩を創作している。
なにか惹かれる理由があったのだろう。
その辺りを探るつもりで、詩を見ていきたい。・・・

公院
(一言至七言,毎人占兩題):


一言から七言までの対句を、順に作っていこうという斬新な取り組み。
おそらく、即興の結果から、選択、推敲したもの。
七言は即興は今一歩だったので、後日、付け加えたのだろう。

【一言】
靜,
虚。

ココは静寂そのもの。
空っぽで何もない。

「虚静恬淡」は荘子。廃仏騒動が一段落したばかりの寺院の中に、深山幽谷の飄々たる虚静的雰囲気など皆無。よぎる言葉は「色即是空」の方。

【二言】
熱際,
安居
(夢復)
暑い盛りの時は、
気候はどうにもならぬから、
寺院に籠って修行三昧。

大混雑だった都会の寺など復活せずでよし。閑散としているお堂だから打ち込めるのだ。

【三言】
龕燈斂,
印香除。

厨子の灯りは消える寸前。
煉香は外され薫りもせず。

それにしても、あまりに寂しすぎる。

【四言】
東林賓客,
西澗圖書。

文人墨客の韋応物やその仲間の詩僧 謝皎然あたりを想起させる風情あり。
そう考えると、こんなところか。
謝皎然@西林寺の如く
廬山東林寺で大切な客人として、
南無阿弥陀仏三昧もよかろう。
はたまた、韋応物のように
安徽州西澗の寓居での
読書三昧も乙なもの。


【五言】
檐外垂青豆,
經中發白

"青豆"の出典とされている文章であるため、勝手に想像を巡らすしかない。檐[=軒/のき or 庇/ひさし]の外に蔓草が垂れ、そこには豆が実るということだが、それが何を意味しているのかサッパリ見えてこない。そこで、仏教徒の白楽天の詩をもってきてみた。

  「題西亭」 白居易
朝亦視簿書,暮亦視簿書。簿書視未竟,蟋蟀鳴座隅。
始覺芳晩,復嗟塵務拘。西園景多暇,可以少躊躇。
池鳥澹容與,橋柳高扶疎。
煙蔓嫋青薜,水花披白
何人造茲亭,華敞綽有餘。四簷軒鳥翅,複屋羅蜘蛛。
直廊抵曲房,𥦖深且虚。修竹夾左右,清風來徐徐。
此宜宴佳賓,鼓瑟吹笙。荒淫即不可,廢曠將何如。
幸有酒與樂,及時歡且。忽其解郡印,他人來此居。


白楽天の詩の"青薜"は地衣類的な植物のようだが、"薜"[=常獄莖灌木]を指している可能性もあろう。それを"青豆"と言い換えたと考えたらどうか。
ただ、後半の""が「酉陽雜俎」では経典中から発するとされているので、しっくりこない。菌なら別だが、紙に[=荷花/蓮華(荷は蓮の蜂巣) or 芋頭@古書]が生える訳もないから。もっとも、この想定をハズレとみなす必要は無いかも。小生的には、蓮ではなく、優曇華を意味しているとしたいところ。この花が咲くと未来佛である弥勒が現れて衆生を普く済度する、ということで。

【六言】
縱辯宗因袞袞,
忘言理事如如
(柯古 竟)
ほしいがままに"宗因"を、[今村注記では主要な因縁の意味とされる.]
"袞袞"
[=談話滔滔不絶的樣子]として説明したりするもの。
しかし、
言葉無しの紐帯だけの意思疎通の方が
如如
[=皆平等不二的法性理体]の理が通ったりするのが現実。
(后遇 阮籍,便為竹林之交,著忘言之契。[「晉書」山濤傳] )
現代的には「以心伝心」だが、仏典的には「拈華微笑」か。[霊鷲山で釈尊が衆を前に花を示したところ、摩訶迦葉だけが微笑して応じた。]当時の新興宗教たる禅宗の「不立文字」の意気ごみを感じさせるものに仕上がっている。

【七言】
泉臺定將入流否,
鄰笛足疑清梵余
(柯古 新續)
これは、詩を引いておけば足りるだろう。

  「樂大夫挽詞 五首 其五」 唐 駱賓王[640-684年]
忽見泉臺[=墳墓]路,猶疑水鏡懸。何如開白日,非復覩青天。
華表迎千,幽送百年。
獨嗟流水引,長掩伯牙弦。

  「哭曹鈞」 唐 錢起[710年-782年]
苦節推白首,憐君負此生。忠名空在,家貧道不行。
朝來相憶訪蓬,只謂淵明猶臥疾。忽見江南弔鶴來,始知天上文星失。
嘗恨知音千古稀,那堪夫子九泉歸。
一聲鄰笛殘陽裏,酒空堂滿衣。
この笛の音が清梵[=僧尼誦経的声音]かと思ってしまうというのである。今の長安にはそのような誦経が流れることなどありえないのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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