表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.3.16 ■■■ 千年古墓越王と墓の話。[卷十三屍穸]・・・《水經》言, 越王勾踐都瑯琊,欲移允常冢, 冢中風生,飛沙射人,人不得近,遂止。 "臥薪嘗胆"で知られる勾踐[n.a.-B.C.464年]はB.C.473年に呉を滅ぼし、都を會稽から北の瑯琊に遷した。 越は海洋国家でもあるから、始皇帝が東海を眺めた場所で、中原の覇者と宣言したかったのであろう。 中華帝国では、王陵は生前に構築するのが習慣だが、勾踐は浙江紹興の印山に、父の允常の墓を移設したのである。これが、《越絶書》[残存する地方志としては最古]で"木客大冢"と呼ばれている、壮大な埋葬"施設"[@蘭亭]。 発掘調査によれば、表面が炭で樹皮が被さる三角形である膨大な数の木槨で囲まれているという。地中の宮の基本形態なのであろう。"至黄帝之時.以玉為兵,以伐樹木為宮室.鑿地。"の実態である。 中華帝国は、天子の位争いが熾烈であり、禅譲という形態でもとらない限り、旧天子は塵芥のように扱われる。ただ、史書に新天子にとって都合のよい記述が残るのみになる。 当然ながら、前天子の墓も盗掘の憂き目というのが普通。その辺りを揶揄して、墓には褌50枚という話を収録しているのが、「酉陽雜俎」という書である。[→] マ、盗掘を防ぐための仕掛けは色々考えてはあるようだが、命の軽い社会であるから、たいした効果はなかろう。一応、盗掘は祟りがあるゾという話もふりまいてはいる訳だが、そんなものはなんの効果もなかろう。 → 「墳墓盗掘」 そのような話の前段的な典型も記載している。・・・ 按《漢舊儀》,將作營陵地,内方石,外沙演,戸交莫耶,設伏弩、伏火、弓矢與沙,蓋古制有其機也。 又侯白《旌異記》曰: “盜發白茅冢,棺内大吼如雷,野雉悉雊。穿内火起,飛焰赫然,盜被燒死。” 得非伏火乎? 結局のところ、盗掘を防げるか否かは、墓の周囲に墓守的意識を持った住民が存在するかで決まるだけのことではなかろうか。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |