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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.4 ■■■

金剛経のご利益話[序譚]

「續集卷七 金剛經鳩異」には、金剛教信仰のお蔭で救われる話が、21件収載されており、全般的にはすでに検討したが、個々にどうなっているか眺めておくことにした。
   「金剛経のご利益」 「金剛経のご利益話の背景」
「酉陽雑俎」全体に目を通し、この箇所が思った以上に重要だと感じたからでもある。

それについて語る前に、経典、「(能断)金剛般若波羅蜜経」(なんでも切断できる金剛石のように、囚われを断ち切る智慧を完成させたお経)について簡単に触れておこう。

日本では、"般若"系と言えば、理知的な思想書の雰囲気濃厚な「色即是空、空即是色。」の「般若心経」が短いこともあって、極めてポピュラーだが、長老の須菩提と世尊のコンパクト会話集である「金剛経」の方が、本来的には大衆的な筈。
会話であるから覚え易い上に、念誦で無限無量の功徳を得られると言われていたから、人気だったようである。
その結果生まれた摩訶不思議な様々な霊験譚が「酉陽雑俎」収録された訳である。

ということで、最初は、その序的部分の、段成式の父親の話。・・・

[序譚] 亡父君 段文昌 《金剛經》 政治的災禍回避
貞元十七年,先君自荊入蜀,應韋南康辟命。韋之暮年,為賊辟讒構,遂攝尉靈池縣。韋尋薨,賊辟知留後。先君舊與辟不合,聞之,連夜離縣。至城東門,辟尋有帖,不令諸縣官離縣。其夕陰風,及返,出郭二裏,見火兩炬夾道,百歩為導。初意縣吏迎候,且怪其不前,高下遠近不差,欲及縣郭方滅,及問縣吏,尚未知府帖也。時先君念《金剛經》已五六年,數無虚日,信乎至誠必感,有感必應,向之導火,乃經所著跡也。後辟逆節漸露,詔以袁公滋為節度使。成式再從叔少從軍,知左營事,懼及禍,與監軍定計,以丸帛書通謀於袁。事旋發,悉為魚肉。賊謂先君知其謀。於一時先君念經夜久,不覺困寐,門戸悉閉。忽覺,聞開戸而入,言“不畏”者再三。若物投案,暴然有聲。驚起之際,言猶在耳,顧視左右,吏仆皆睡。俾燭樺四索,初無所見,向之關已開辟矣。
先君受持此經十余萬遍,應事孔著。成式近觀晉、宋已來,時人鹹著傳記彰明其事。
又先命受持講解有唐已來《金剛經靈驗記》三卷,成式當奉先命受持講解。太和二年,於楊州僧棲簡處聽《平消禦註》一遍。六年,於荊州僧靖奢處聽《大雲疏》一遍。
開成元年,於上都懷楚法師處聽《青龍疏》一遍。
 復日念書寫,猶希傳照罔極,盡形流通。
 拾遺逸,以備闕佛事,號《金剛經鳩異》。
貞元十七年[801年]のこと。
吾輩の亡父君
[段文昌:772-835年]が荊州[@湖北]から蜀に入った時である。韋南康[746-805年]の出仕要請に応じたのだった。
韋南康の晩年、のちに重罰に処せられた賊官、劉辟に讒言されてしまい、靈池県の尉を代行していた。韋南康が逝去すると、その賊官は節度使を継いだ。
吾輩の亡父君は、もともとその賊官とは不仲であり、それを聞いて、連日夜を徹して靈池県から離れ、城東の門に到着。
賊官は簡単な通知書を発行し、各県の官吏は県から離れるなと命令。
その夜、陰風に見舞われ、引き返したのだが、城郭を出て2里の場所で、火が見えたが、それは2本の火炬
/たいまつで、道を挟んで、百歩ほど前で先導してくれたのである。
初めは、その火炬は県の管理の出迎えに控えていると思ったのだが、ちっとも前に進まず、地形の高低や距離的な遠近の差も無かったのが、いかないも不思議であった。しかし、県の城郭にさしかかったところで火は消えた。そこで、剣の官吏に問いただすと、命令書の件はまだ知らないとのこと。
その頃、吾輩の亡父君は《金剛經》を念ずるようになってから5〜6年だった。それを欠かすことは一日も無く、信念から来たその志たるや誠心そのもので、感銘必至。ということで、感あれば、応ありで、そのご利益があったのである。向かうところの、御迎えのお導きの火炬こそ、お経の顕著なお印しだった訳である。
その後、賊官の反逆行為が節時露呈してしまい、詔勅で袁公 滋が荊南節度使に任命された。
吾輩、段成式の従兄弟は年少時から従軍しており、軍の左営担当だったが、災禍及ぶのを懼れて監軍と計略を図り、丸薬を詰めるの殻に帛書を入れ、袁公 滋に機密文書を渡し、事情を通報したのである。これによって、事の次第がすべて発覚し、一味は悉く魚肉のように残酷に処刑されたのである。
その賊だが、吾輩の亡父君がその謀を知っていたと言っていたのである。
そんな時、吾輩の亡父君は夜間ずっと金剛経を念じていたのだが、不覚にも、困憊して寝込んでしまった。門も扉も悉く閉めてあったのだが、忽然と、目が覚めたのである。そして、戸が開けられた音が聞こえ、誰かが入って来た様子。
「懼れるな。」という再三言ってから、机に物を投げるが如き暴然とした音がした。驚いて起きたのだが、猶、耳にその音が残っている感じで、左右を振り返って見たところ、吏も僕も皆熟睡中。樺の燭火をつけさせ、四方を探索したが、見た所何もなかった。ただ、先に閉めておいた扉の閂
/かんぬきは開いていた。
亡父君はこのお経を受持して、読誦すること10万遍余り。その感応は明らかで、そのご利益は著しいものがある。
吾輩、段成式が、最近観たのであるが、晉、宋以来、時々の人々は、ことごとく記録して伝承のために著しており、そのご利益事象をたたえ広く世間に知らしめているのである。
それに加え、吾輩の亡父君は、受持の上、解題講義をするように命じられた。唐代に入ってからは《金剛經靈驗記》三卷があり、吾輩、段成式としては、亡父君の受持講解の命に応えて奉じる所存。
と言うことで、太和二年
[828年]に、楊州の僧棲簡のところで、《平消禦註》を一遍聴講した。
さらに、太和六年
[832年]に、荊州の僧靖奢のところで、《大雲疏》を一遍聴講した。
そして、開成元年
[836年]にも、長安の都の懷楚法師のところで、《青龍疏》を一遍聴講した。
もちろん、毎日毎日、念誦し、写経を行っており、それは果てしがないところまで、その威光を伝えたいと希求しているからであり、その形を悉く流通させたいがため。
そのようなつもりで、散逸し遺失していた話を拾い集めようと考えた。それによって、仏教の事象として欠けている部分を補えるということ。
そんな訳で、号して《金剛經鳩異》とした。


尚、段成式:「塑像記」を見ると、《正法念經》を好んでいたようである。・・・
吉之人香火徼福,林篿乞靈,福既據我,靈詎乏主。
噫!予曾《正法念經》,説摩螳由攪齊日四天於此,會計閻浮提善業,豈容不歸敬與。


【日本における霊験譚の扱い】
「金剛経鳩異」は836年撰だが、それより古い霊験本が日本に現存している。奈良国博所蔵の孟献忠 撰@718年[藤師国書写@1079年完本]:「金剛般若集験記」で、上巻:救護と延寿、中巻:滅罪と神力、下巻:功徳と誠応、計70章が収録されている。今村によれば、上記3巻本とは、これより若干古い薫璃 箸:「金剛般若経霊験記」の可能性が高いとのこと。
尚、遣唐大使 藤原葛野麻呂は804年に大暴風に遭遇し、187の神々に「金剛般若経」写経誓願し無事渡航できたとされる。(同乗した空海が願文執筆。)
806年には、全国の国分寺で崇道天皇[=早良親王]追善彼岸法要として、金剛般若経7日間読誦が行われた。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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