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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.27 ■■■

[学び]筆と書

「酉陽雑俎」は読み取るのが極めて難しい本である。文章は飾らず簡潔だが、どういう意図で書いているのかがわからないようになっているからだ。
要するに、どうしてこんな話題を採り上げたのか、わかるかナ〜、という調子の本なのである。

従って、読むのはえらく骨である。しかし、読もうとすれば必然的にそれなりの知識が必要となり、周辺を洗うことになるのだが、それはすべて「定説」で彩られており、場合によっては、同じ情報を体裁を変えただけのお話以外になにもみつからなかったりする。しかも、段成式が気にして書いた話とは微妙な齟齬を感じさせられたりして。

マ、これは実感しない限りわかるまい。
ということで、「酉陽雑俎」には収録しなかった文章を取り上げてみたい代物。

筆は絵画にも用いるが、基本は書の道具であろう。そこらが、ペンの西洋とはいささか趣が違う。その書だが、どういう目的で何をどう書き表すかで千差万別。しかも、字体、書体、書法の3階層があり、概念的にゴチャゴチャ。日本語のように多義かつ読み方も併存させる方式ではないのに、そこらを気にかけないのは不可思議である。
段成式はそのあたりを見抜いていたようで、「酉陽雑俎」では字体(特に、原体としてのフォント、特に、読めない文字に関心を寄せていた。一般用語では、原体構成と意匠表現の2つの概念が融着している。)について取り上げているのだが、書法については冷淡に見える。書論についても一家言あってしかるべきなのに。

前置きが長いのもナンなので、先ずは文章。・・・
  「寄餘知古秀才散卓筆十管軟健筆十管書」 段成式
竊以《孝經》援神契,夫子之拜北極;
尚書》中候,周公授之以出元圖。
其後
仲將稍精,右軍益妙,張芝遺法,新規。
其毫則景都愈於
中山,麝柔劣於羊勁。
或得懸蒸之要,或傳痛頡之方。
起自蒙恬,蓋臻其妙。
不惟元首黄之制,含丹纏素之華,軟健備於一床,雕工於二管而已。
則大白麥穗,臨賀石班。
格為仙掌之形,架作蓮花之状。
限書一萬字,應貴鹿毛;
書紙四十枚,兼人發。
前寄筆出自新銓,散卓尢精。能用青毫之長,似學鐵頭之短。
況虎仆久絶,桐燭難成。鷹固無慚,兔或撩。
足使
王朗遽閣,君苗欲焚
門牆,足備其闕也。


小生には、サロンで興がのって、議論していた時のメモに多少色をつけて文章化したようなものとしか思えない。
しかし、だからこその面白さとも言える。

と言うか、これは立派な書史論を兼ねているし、技巧解説的な書体論の抜本的な批判文になっていると言えないでもない。どうにでも読める訳で、下手に書けば処刑されかねない時代、極めてレベルの高い論攷と考えるべきかも。

だいたいタイトルがふるっている。筆の話と思うと、冒頭から「孝經」とか「尚書」の話なのだから。

と言うことは、筆を考えるなら、揮毫の技巧やお手本の真似に血眼にならず、先ずは「書」と「文字」について自分なりのモノの見方を確立するのが先決とのご注意かナ、と思ってしまう訳でそこが狙い目でもあろう。ご教訓モノを片っ端から読んで暗記し、意味の無い読後感を話し合うことに喜びを感じる人達は端から相手にしていないのである。
要するに、頭から断片的な指摘がなされるので、読者はとまどうことになる。そこであきらめずに先に進もうとするなら、勝手にストーリーをつけ、それなりの論旨を創出せざるを得ないのである。筆の話であっても、「書経」とは何ぞやという質問に答えることができる力量が無いと、読みようがないということでもある。
つまり、浅学の身であれば、註無しで読めたものではない。
そう考えて、冒頭の文章に軽く註を書いてみた。・・・
○「孝經」
曽子門人が孔子の言動を記した書だが、焚書坑儒で消滅しなかったようだ。玄宗によって注釈書「御注孝経」が撰述され中華帝国官僚システムの中核に位置付けられるようになった。(「老子」の注釈書「開元御注道徳真経」や「御注金剛般若經」も撰述している。)
○「尚書」
堯舜〜夏・殷・周の帝王言行録。(一般には「書経」と呼ばれるが、現行本テキストは偽古文とみなされている。)官僚(史官)による記録様式の原点である。
○周旦公
「爾雅」は儒教経典を正しく読むための"字書"。著者は、聖人たる周旦公[紀元前11世紀]とされている。
しかし、これだけではとてもとても。
一般常識的な文字の歴史を知っていないとナンダカネから抜け出せないのである。簡単に解説をつけておこう。・・・
中国の伝説では、黄帝に仕えた史官 蒼頡が象形文字を創ったとされている。ここで初めて、書契の決め事が成り立ったことになる。
(「筆賦」蔡@東漢)
つまり、所謂、甲骨文とは、天帝との書契に係る卜占用のもので、一般の書とは全く意味が違う。そうした祭祀から一歩進んだ文字が鐘や鼎に記載された金文。こちらも祭祀用ではあるものの、権威主義を彷彿をさせる立派な道具に仕立るための。装飾的な呪文と見ることもできるから、極めて政治的な代物と言えよう。この時代、すでに筆と墨はあったのである。(但しあくまでも下書き用。洗練されたデザインだったろうが、本質的に割り箸の先に毛を挟んだ程度の構造な筈。)
これが、中華帝国の帝-官僚の統治システムに組み込まれ、竹簡や木簡による為政者の意志伝達の仕組みに発展した訳だ。(文字の標準化がなされる。)ここに至り、公定筆書き文字が成立する訳だ。それが篆書の時代。その字形は、彫刻の伝統を受け継いでおり、それは筆の形態によるところも大きいだろう。ただ、記載面から考えて、枡文字は、次第に上下に潰した字体にならざるを得ず、祭器と一体化していた文字の神聖さも消滅するしかない。フォント変換も時間の問題だったと見てよいだろう。(倭国は、ここに至って、コミュニケーション道具としての文字を導入する決定を下したと思われる。)
さらに紙が投入されると、筆もそれに合わせて改良がなされ、文字も隷書に変わっていく。
文字が広く使用されるようになれば、それに合わせた書き易い道具が拡がり、文字も楷書となり、さらに行書、草書と進むことになる。


「官位の筆師」[→]ですでに取り上げたが、毛筆は古くは兎毛。漢代から、宣州@安徽の「宣筆」こと、"中山兔毫"の名筆が知られていた。飼い兎とは違って剛毛であり、現代の眼から見ればベストとは思えないが、一種の伝統だったのだろう。
その後、鹿毛や、軟らかくて腰が無い羊毛を使うという流れが生まれたのである。(日本は狸が多いが。)
軟らかい筆が登場したことにより、書には、"書きっぷり"が表現できるようになる。文字そのものの神聖イメージから、書家の気迫が伝わる方が優先されるようになったのである。
初唐の三大書家(欧陽詢, 虞世南, 遂良)は伝統的な有心筆だったようだが、李陽冰(「筆法訣」)の頃になると散卓[=無心筆]がかなり入ってきたようだ。
ここらから、書家の意味が大きく変わってきたといえよう。
成式は、そんな観点を踏まえて書家を選んで記載したのだと思われる。有名人は、こんなところか。
○張芝[n.a.]@後漢:書家
○鍾[151-230年]@魏:政治家・書家(「棄筆賦」)
○仲將=韋誕[179-251年]@魏:「筆墨法」[→「人間心理」]
○右軍=王羲之[303-361年]@東晋:政治家・書家(「書論」「筆勢論十二章」)
○王献之=王羲之の子
氏=[305-345年]@東晋:政治家・武将・書家

唐代以前の書道教育は家伝的な一種の秘訣伝承だったと想定されるが、それが唐朝のインターナショナル化で大変貌を遂げたと見てよいだろう。書法や筆法、あるいは書論が続々と登場し秘技伝授が流行った筈である。
コミュニケーションの道具としての書がある一方で、道教的な精神性発露としての書という側面も強くなったと見てよいだろう。(儒教的な公的秩序最優先とは相反する動き。)
それに合わせて、筆も大きく変わらざるを得なかった訳である。東晋の時代をひきあいに出すのは、その辺りの流れを意識してのことだろう。
文字で宇宙観を示す取り組みが始まったのであろう。当然ながら、そのための文具としての筆は特別なものとなる。
マ、そんな流れが宋代の水墨画として結実することになったのだと思う。モノクロームなのに、総天然色の世界が描ける訳だ。

筆を巡って、唐代がどんな雰囲気だったかは、特別高貴な筆を詠んだ白楽天の詩でなんとなくわかる。但し、内容的には筆を剣にせよというだけのことで格段の特徴は無い。くだらん儀式に使ったり、権謀術数の道具として糾弾に用いるなどもっての他だゼ。空虚な書など慎め、と書いただけのこと。
  「紫毫筆歌」 白居易
 紫毫筆,尖如錐兮利如刀。
 江南石上有老兔,吃竹飲泉生紫毫。
 宣城之人采為筆,千萬毛中揀一毫。
 毫雖輕,功甚重。
 管勒工名充貢,君兮臣兮勿輕用。
 勿輕用,將何如?
 願賜東西府禦史,願頒左右臺起居。
 搦管趨入黄金闕,抽毫立在白玉除。
 臣有奸邪正衙奏,君有動言直筆書。
 起居郎,侍禦史,
 爾知紫毫不易致。
 毎宣城進筆時,紫毫之價如金貴。
 慎勿空將彈失儀,慎勿空將録制詞。


以下、ご参考。
○王朗[n.a.-228年]@魏:政治家
○故事<崔君苗焚硯>
機天才秀逸,辭藻宏麗,張華嘗謂之曰:
「人之為文,常恨才少,而子更患其多。」
弟雲嘗與書曰:
「君苗見兄文,輒欲燒其筆硯。」
[「晉書」卷五十四 陸機傳]


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