理念追求なき憲法…
天皇制の問題をとりあげたが、これは現行憲法が持つ一大欠陥の象徴と言える。
→ 「人権無視の憲法」 (2004年4月17日)
皇族に対しては、人権を認めないのである。例外があるということは、一般国民に関しても、国全体の利害を考えれば、人権を認めなくてもかまわない、と考えることになる。
憲法に記載されていても、現実には、人権は普遍的、かつ最優先すべき課題とは見なされていないのだ。
同じことは、平和主義でも言える。
現行憲法には、軍隊保有を禁じる、平和主義の精神が貫かれている、と絶賛する人は多い。
・・・ここに問題がある。
理想を追求するのは悪いことではない。憲法に理想を掲げるのも、素晴らしいことだ。
欧州憲法のような、妥協の産物は禍根を残すから、明確な理念をまとめるのは正論と言える。
しかし、理想論を書類化しただけでは、何の意味もない。現実を、理想に近付ける活動が伴わなければ、機能しない憲法ができるだけである。
重要なのは、憲法の理念そのものではない。憲法を死文化させないための、理念に合わせた活動をしているかどうかだ。
例えば、人権を大事にするなら、その理念に反するものを叩き潰す動きなくしては、憲法は機能しない。
その観点で考えれば、人権同様、平和憲法はほとんど機能していないと言えよう。
自衛隊は違憲状態、と叫ぶ人がいる。現行憲法はどう読んでも軍隊を禁じているのだから、その主張は正しい。しかし、憲法に記載された文章に基づいて、違憲の主張を繰り返しても、たいした意味はない。
平和憲法を守るためには、武装を推進する側を非難するだけでは決定的に不足である。非武装国家を実現するための活動をしない限り、憲法は空文化する。
本気で非武装を主張するなら、具体的に平和を守る方策を語り、実際に動かねば、憲法は生きてこない。そうでなければ、単なる神学論争である。
軍隊の無い国家などあり得ないにもかかわらず、非武装の理想主義を追求するつもりなら、ただならぬ覚悟が必要である。何をされても、我慢することになるのだ。
常識では、これは難しい。だから、どの国にも軍隊が存在するのだ。
従って、世界平和を実現するためにどのような活動をすべきかを明確に提起し、世界の人々を説得できなければ、平和憲法は空念仏になってしまう。
違憲訴訟を国内でいくら行ったところで、何の意味もない。
世界に対して、憲法の理念に合わせた説得性ある行動を行うことで、初めて憲法が機能するのである。
日本には、このセンスが決定的に欠けている。
平和主義と言うが、日本の外から冷静に見れば、日本人は、自分達だけが上手く世界の戦乱から逃れればよい、と主張しているようにしか見えまい。
現実には、テロリストもいれば、戦争をしかけたい国も存在する。
民族浄化を図り、膨大な数の虐殺を行っているのが、現実社会である。これを、どうやって止めるつもりなのか。
国内にも、軍事クーデターで支配しようと考える狂信グループも存在するのだ。
平和主義に徹するなら、このような軍事力の脅威に対して、敢然と非武装で戦うことになる。甚大な被害を被るのは間違いあるまい。
そのような気概がある国民が存在しない限り、平和憲法は守れない。
日本に、今まで、そのような脅威が無かった訳ではない。にもかかわらず、非武装で、こうした脅威に対して戦ったことはない。どう戦うべきかの指針さえ提起されたことはない。
それでは、どうしていたのか。
この答えは簡単である。
軍事活動は「傭兵」で補っていたのである。
つまり、日本の平和主義の主張は、多くの場合は、「傭兵」主義と同義なのだ。
自ら、世界の平和維持のための軍事活動には係わりたくないから、ご都合主義的に「平和主義」を主張してきたとも言える。
崇高な理念を掲げれば、現実とは合わなくなる。それでも理念を掲げるなら、理念を現実化させる活動を進める以外にない。
そのような活動ができないのなら、憲法は形骸化するだけだ。