■■■■■ 2013.7.14 ■■■■■

  プラセボ効果について

今回はプラセボ話からの敷衍。 →健康長寿への取り組み方 [2013.7.5]
つまらぬ話ではあるが、書き留めておくことにした。

体に影響を与えるような物質がほとんど入っていない、外見だけの薬モドキを患者に投与するだけで、かなりの割合で治癒効果が得られることが知られている。心理的効果なのは明らかだが、その作用機作は解明されているとは言い難い。

従って、治療方法が見つからない患者でも、プラセボ効果を利用したらどうかという話が持ち上がるのはわからないでもない。
俗に言われる、インチキ治療とはその手のものと見てよかろう。「治癒不可能とされた病人が回復」という実例で宣伝している類の話。
このなかには、誤診断から救われた例や、嘘八百の詐欺商売もあると思われるが、事実もかなり含まれているのでは。そのため、どうせ助からないのなら、一所懸命試すのも悪くない話ではないかと、グルに秋波を送る人もいる。
小生は、そうは思わないクチ。

科学的な知識から判断して、眉唾モノに映ったら、たいていの人は「効かないかも」と考えてしまうだろう。その時点でプラセボ効果は期待できなくなる筈だ。従って、はなから意味の薄いトライアルと言わざるをえまい。
もともと、訳のわからぬ理屈しかない方法を試してみる人は僅かだ。そして、それを試みて治癒する人も極めて稀。治癒したことが事実でも、それは「万に一」と見るべきだろう。例外事象をそのまま真似て同じ結果がでることはまずあり得まい。本来は、例外と見なせる特徴を調べて解決の糸口を探すべきだが、どうせよくわからないということで誰も調べようとしないのだろう。
まあ、こんな状況で、訳のわからぬ治療方法を試すというのは宝籤に全財産を過ぎ込むようなもの。そんなことをお勧めする人はいまい。
でも、止めてもやりたくなる人は少なくない。その理由は単純で、治療というよりは、宗教活動の一種だからだ。見かけが宗教的でないし、関与している人達もそう考えていないかも知れぬが、実態は科学の常識を認めないカルト。
治癒を目指すために厳格な「戒律」があり、それに従って、奇跡を信じて特殊な「修行」をする教団である。
小生は、その手の教団への加入はお勧めしない。それだけのこと。

そうそう、試しに「修行」というのも、ほとんどの場合プラスにはなるまい。
そんなことより、やりたいことに、残っている貴重な時間を使った方が平穏な生活が可能だと思うからだ。もっとも、やりたいことが無く、人生に価値を見出せなければ、訳のわからぬ教団のお誘いにのることになるのは世の常。小生はそれを是とは考えない。

ただ、プラセボ効果が存在するのだから、自分の体が持つ潜在力を生かせば、治癒の可能性はあるという点は忘れるべきではなかろう。
真似ではなく、自分に合った「鍛え」を取り入れるのは悪くないと思う。とは言え、適切な方法を見つけるのは達人でなければなかなかできない。富士山に登って頭が痛くなり歩けなくなるような人が、いきなりエベレスト挑戦は無謀なのは明らかだからだ。目標を何処において、何を、どのようにして鍛えるべきかを考えるのは結構難しいことなのである。
先ずは、自分の体が、今、どうなっているのか、自分で状況判断できる力を持つことからだろう。健康診断の数字を眺めたところでわかる訳ではない。感性を研ぎ澄ませ、自分の体がどうなっているのか探り、潜在力を高めることにつきるのでは。ヒト真似の「鍛え」を敢行しても、自分に必要なことをしているとは限らない。逆かも知れないのである。つまり、「鍛え」という名の、プラセボ投与。

例えば、頭でっかちになって、カロリー摂取を抑える方が多いようだが、それが正しいのか体に聴いてみたら如何。ほとんどカロリー消費しない生活になっているだけでは。ソリャ、カロリー取り過ぎになってはいるだろうが、より非活動的な方へ進もうというのだから、それは老化へと突っ走っているにすぎまい。それがはたして最良の健康維持策かネ。
そもそも、粗食が素晴らしい訳ではなく、そうすれば、ちょっとしたご馳走の喜びが生まれて、場合によっては絶大な効果を生んだり、長期的には栄養吸収力を鍛えることになるからなかなか良いというにすぎまい。一種の「鍛え」である。栄養吸収力が弱くなってから、いきなりそんな鍛え方をしている人もいらっしゃるようだがはたして大丈夫かネ。でも、効果を信じれば、プラセボとして働くかも知れぬが。


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