■■■ 2012.5.29 ■■■

   日本語の眼の概念

何年かぶりかわからぬが、とあることで広辞苑を使った。ついでに「め」と「ま」をひいて目を通してみた。
一寸、気になっていたからである。

なあんだ、辞書を眺めるだけで、結構、いろいろ見えてくるものだと感心。と言っても、独りよがり。ご参考に開陳しておこう。

関心の発端は、「眼」の発音から。
 →  眼で見ると、日本語は海洋民族語(2011.1.27)

「め」は奈良時代、甲タイプ(me)と乙タイプ(më)の2語あったという。成る程、そういうことか。
さすれば、一つは、どう見ても「雌/牝/女」だね。「妻」というか、配偶者を指す言葉だ。「め」と発音することで、具体的イメージを指し示すことが可能だ。
もう一つが「目/眼」を含む一群の概念。当然ながら、対照的な言葉と考えるべきで、具体的イメージを持つ「EYE」ではまずい。漢字の「目」は象形文字だから、「EYE」そのものだが、これに対応する日本語の「め」はもともとは「EYE」とは無縁の、なんらかの抽象的な概念だったと考えるのが自然。「め(目)」の意味一覧をざっと眺め回すと、そんな感じがしてくるのだが、如何かな。まあ、この辺りの感覚についていけない方もおられるかも知れぬが。
辞書には色々な意味が羅列してあるが、それを勝手に解釈すると以下のようなもの。・・・
 (1) 視覚器官:もちろん「EYE」
 (2) 見るという機能
 (3) 見られるモノ
 (4) 点状のモノ
 (5) 秤の目から転じた、重さ
 (6) モノの接するところにできる筋(柾目)

ポイントは(1)と(2)を除くこと。それは、漢字の「目」をあてたから、そちらの意味がかぶったと見ることもできるからだ。そうすると、この言葉は、見る器官の方ではなく、見られるモノの方を指す用語であることがわかる。
その上で、「目/眼」以外の、同音の「め」をボゥーと眺めるとよい。単なる同音意義語と考えるなかれ。すべてを包含する概念がある筈と考えて見るだけのこと。・・・「芽」、「海布」、「奴」。
感覚が余程鈍い人でなければ、その抽象概念がうっすらと見えてくると思うが。
 ・「芽」とは、意味は萌えという意味。
   目立つとか、目が出るということ。
   ちなみに、目をmataと呼ぶ南洋ではmoemoe。
 ・「海布」とは若布、荒布、昆布といった海藻を一括した呼び名。
   海にできる筋のような文様ということ。
 ・「奴」とは、ヒトの最下層階級。
どう見ても、これは分類様式の概念。考えて見れば、そんなことは当たり前。「目」とは「モク」だからだ。品目、題目とは内容の羅列化。目録、目次の「目」でもある。分類するからこそ、ヒクメ(低目)、フトメ(太目)となるのだ。「奴」など、明らかに分別というか、差別用語である。
見ている対象物を分類するとの概念を「め」と呼んでいたのが、いつしか見る側の「EYE」も同じ発音にしてしまったということだろう。

言うまでもないが、日本語の正統な「EYE」とは「め」ではなく、マナコの「ま」なのである。眉が「まゆ」、「まよ」、「まい」と3種類の発音があるから、「ま」が「め」になってもおかしくないというのは余りに雑な見方。基本概念を表す言葉がそう簡単に変化する訳がなかろう。「ま」と「め」は違った言葉なのである。
「ま」には、これまた様々の意味がある。「眼」、「間」、「身」、「真」。それに、「麻」、「摩」、「磨」、「魔」。そして、「馬」。なんだ、そういうことか。土偶の「眼」を見た人ならすぐにわかる。そこはヒトの身体にできた外部に繋がる隙間があるのだ。
まさしく、南洋のmataという概念と瓜二つ。魂が外部と接触する「間」なのである。機能主義的視点で定義された器官名称でしかない「EYE」とは、なんのつながりもない概念と言ってよいだろう。


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