表紙 目次 | 時雨好き民族 時雨は冬の季語。理由はわからねど、えらく好かれている言葉である。 芭蕉忌も時期的なことから通称「時雨忌」だ。もっとも、愛好者からみれば、芭蕉がこれゾということで心して取り組んだ季語に映るのだろうが。 小生の場合は、ピンキリ商品の時雨煮で頭に残っている語彙。以下の歌があるとは知らなかった。 桑名の殿さま ヤンレー ヤットコセー ヨーイヤナ 桑名の殿さん 時雨で茶々漬・・・ [お座敷唄@桑名] 食堂に 雀啼くなり 夕時雨 [「時雨蛤」命名者 芭蕉高弟 各務支考] 雪月花と言われるが、俳人にとっては、時雨はそれ以上に跳びつきたくなる季語であるのは間違いない。 しかし、江戸よりは、京都に向いた情景。 箱庭的列島の視点では広大な関東平野では、この時期はもっぱら空っ風が吹き抜ける。木々を丸坊主にさせる木枯らしの方が似合う。 これが盆地になると、話は一変。山越えの雨雲がやって来て、冷たい雨をしばし降らせることになる。つまり、「そろそろと北山時雨」。 いかにも、辛い窮乏季節に入った感じがする。 その感覚を味わう一番の歌としての定番は古くから決まっている。・・・ 千五百番歌合に、冬歌 世にふるは 苦しきものを 槙の屋に やすくも過ぐる 初時雨かな [二条院讃岐 新古今集#590] それを受けた俳句も。 世にふるも さらに時雨の 宿りかな [飯尾宗祇] さらに、季語無しOK版の登場。 こうなれば話題性十二分。テキストに3ッ並んで紹介されることになる。 世にふるも さらに宗祇の やどり哉 [松尾芭蕉] ただ、超有名なのは松尾芭蕉の初時雨の句だろう。 初時雨 猿も小蓑を ほしげなり [「猿蓑」] 旅人と 我名よばれん 初しぐれ [「笈の小文」] そのただならぬ決意を感じ、本気で俳句に没入する気なら、初時雨の作品作りは必須条件と言えよう。 初時雨 これより心 定まりぬ [高浜虚子] 結核菌と共に生きた正岡子規も時雨をずいぶんと詠んでいる。肉体的に苦しい季節がやってくる兆候を眺めるのだから、その気分いかばかりか。 狐火は 消えて野寺の 朝しくれ 新宿に 荷馬ならぶや 夕時雨 小夜時雨 上野を虚子の 来つゝあらん 原中や 夕日さしつゝ むら時雨 時雨とくるだけで情緒感満喫というのが日本的観賞の基本のようだ。時雨用語の種類も半端ではなさそう。さすれば、涙時雨やご当地時雨といった用語もあろうから、耐え忍んでひたすら頑張ることに美を見出す演歌向きの題材という気もする。生憎とそのジャンルは苦手なのでどうなっているのかはわからない。 小生的には、「世にふる」といった文芸真剣勝負的な心根を感じさせるものよりは、こういう季節だからこそお気楽で行こうヨ的に流す作風の方に親しみというか粋を感じる。これゾ時雨心地としたいのだが異端か。 蓑虫の ぶらと世にふる 時雨かな [与謝蕪村] 雪月花情緒を愛するなら、しぐるゝなかでの山茶花が最高では。ちらほら散りゆき、雨露に濡れた花弁が残るという、儚さの象徴的情景はなかなかのものと思うが。山茶始開は椿ではこまるのである。 → 「山茶表現に見る和的体質」 まあ、それと正反対の時雨歌もある訳だが。これはこれ、三味線と手拍子が入り、まさに意気の境地とはいえまいか。 さんさ時雨か、萱野の雨か、 音もせで来て 濡れかかる、 勝凱な [掛け声]ア、メデタイ、メデタイ。・・・ [一関民謡祝宴用] 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2013 RandDManagement.com |