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2014.6.16

中国の料理文化圏

[中華麺の粋 (2)]

山西(普)麺料理>は、中華料理四千年の伝統食文化を彷彿させると書いたが、 [→] その根拠をまとめておこう。まあ、歴史のおさらい。

先ずは、黄河文明の発祥の地を眺めてみようか。と言うことで、黄河の流れを模式的に描いてみた。・・・山東は、西安を中心とする中原域から外れるものの、その一帯に属していることを確認しておこう。
渤海湾
黄河口…山東

○済南…山東
──┼─[大運河]─[微山湖]─○徐州…江蘇

○開封…河南

──┤←[沁河]
○鄭州…河南

┌─[伊河]─
├─┴─[洛河]─

○洛陽…河南

○三門峡…河南

[水]○西安…陝西
├─[渭河]┬┬┬┴─
[洛水,沮水,水]

──┤←[汾河](至:○太原…山西)
○蘭州…甘粛
└────────────
○包頭…内蒙古

これを踏まえて、歴史の確認。

[1] 新石器時代の遺跡発掘で中原の始原的な状況はかなり解明が進んできた。恣意的な発表も少なくないので要注意だが。
[1a] どうも、西安より下流の渭南で興った老官台文化(B.C,6000-5000)が古そう。中華四千年は昔の知識で、今や八千年である。
[1b] これが、仰韶文化(B.C,5000-3000)に繋がったとみられる。地域的には、黄河上・中流の陝西省、山西省、河南省。代表的遺跡は、西安の半坡、臨潼姜寨。尚、主要穀物はまだ粟だったらしい。
[1c] 新石器時代の後期に入ると、龍山文化(B.C,2500-2000)が興る。地域的には黄河中・下流の陝西・山西の南・河南と、だいぶ離れた山東である。

[2] そして、夏-商(殷)-周の都市国家(邑)連合時代に突入。
[2a] 中国最古の王朝、(B.C,2070-1600)が開幕。時あたかも、青銅器時代の初期である。その勢力範囲は山西の南から河南の西辺り。伊河と洛河辺りの洛陽近郊と、山西を流れている汾河に入った辺りやそのすぐ南が中心である。塔児山西麓の陶寺遺跡は、堯舜之都と言われている。最古の文字が発掘されたのであるから、都だった確度は高そうである。史書記載事項を直接当てはめる方法論の妥当性には疑問符がつくとはいえ、「堯都平陽(@臨汾)舜都蒲板(@永済)禹都安邑(@運城)」は当たらずしも遠からずと思わる、山西が、都市国家の揺り籠役を引き受けていたのは間違いなさそう。
[2b] 続いて、が興る。(前期:B.C,1600-1300)都市国家群のリーダーが変わった訳である。
洛陽辺りの二里頭文化圏の国と見られている。鄭州にも商城遺跡がある。商の後期(殷)(B.C,1300-1046)は、河南の北の安陽が都。(殷墟)
[2c] 殷を倒したのが、西周(B.C,1046-771)。本貫地たる「周原」(岐山,扶風)は西安の上流約120Km。そこで力をつけて、西安付近に都を設定したのである。(鎬,鎬京)
[2d] しかし、政治の実権は、やがて、洛陽(洛邑)を首府とする東周(B.C,771-256)に握られるようになる。分裂したためか、周は勢力低下一途。東周も小国化し、春秋戦国時代に突入する訳だ。山西は普(-B.C,378)の支配下。都は太原。

[3] そして、いよいよ、巨大国家時代
[3a] 先ずはの誕生。発祥の地は渭河が甘粛に入った天水。そこから、下り、西安より150Kmほど上流になる鳳翔に拠点を構築(秦擁)。さらに下流へと勢力を拡大し、巨大な都を西安の隣接地、咸陽に設置。そこから、内蒙古の包頭まで尾根を開削して弾丸道路を建設したのだから驚異的。山西は、太原郡、河東郡といった形で管理されていく。
[3b] その後、中華大帝国を立ち上げたのが"前"漢(B.C,206-A.D.8)。首府は西安(長安城)。"後"漢(25-220)は洛陽。

[4] 三国時代に入り、ここが(220-265)の首府となる。
西晋(265-316)の都ももちろん同じ洛陽だが、この頃になると、山西は北方民族勢力の根城化していく。386年には、鮮卑族拓跋が北魏(386-534)を建て、山西の大同(平城)を都にして、北域を統一したのである。西は敦煌までで、黄河流域はほとんど支配下。徐州まで含まれる。言うまでもないが、完璧な仏教立国である。

[5] 300年ぶりに統一国家が生まれる。
[5a] それが(581-618)。短命。
[5b] 隋末に李淵(高祖)が山西省で起兵して(618-907)が樹立される。

[6] 唐の覇権が崩れると、二度と中原が政治の中心になることはなかった。北宋は下流の開封を都にしたのである。山西は太原府が中心になる。
そして、女真族の金(1115-1234)の華北支配へとつながる訳である。
その後は、蒙古族の元、江南(南京)を基盤に長江を統一した明、満州族の清が覇権を握る。山西省として扱われることになり、現代に至る。

こうして眺めてみると、山西の位置がわかるのでは。
ただ4000年前の雰囲気が、現在の料理に残っていると見なすのは余りに無理があろうが。

しかし、北方民族に征服されながらも、独自色を捨てない意気の根源は、「夏」や「唐」を生み出した自負心ではなかろうか。
と言うよりは、それは敵愾心かも。刀削麺の由来は包丁使用禁止の故と耳にすれば、そう考えざるを得ないのである。刃物を使わせるとなにをされるかわかったものではないという人達が住んでいた訳である。
小麦粉料理の工夫こそが、アイデンティティ発露でもあった訳で、北方民族とは違うことを、食でみせつけたということだろう。
ただ、上記の歴史を感じれる一番が山西と気付く人は稀だろう。一番は、なんといっても<西安料理>と考えるのが自然だからだ。

と言うことで、現代の西安名物料理を眺めてみよう。

宮廷料理系の「咸陽仿唐宴」を見ても、すぐに特徴はわかりかねるが、大衆料理にも登場する手の名物が入っており、どのような食文化が伝統として残っているのかはすぐにわかる。
観光的には、イの一番に「餃子宴」があがってくる土地柄でもある。水餃子は北京料理のイメージが強いが、そこはもともとは中華帝国の辺境の地で新興地域だから、中華餃子発祥の地は西安と見るのが妥当だろう。もっとも、どちらを原初としようが、たいした意味はない。肉食北方民族の小麦粉モノであり、西域からの渡来料理であるのは間違いないと思われるから。

ただ、その調理技術が花開いたのは明らかに西安である。なにせ、餃子オンパレードの"宴"まで催すのだ。中味も色々と工夫され、様々な形状や美しいプリゼンテーションで供されるようになった訳だ。大衆料理的にも、北京のように水餃子一本槍的こだわりは薄いようで、鍋貼酸湯といった、毛色の違うものも好まれているらしい。それが西安料理とは限らぬが。

餃子より、西安らしさを感じさせるのは、実は、パンである。これこそ、西域から流入した小麦粉料理そのもの。どうしてもパンは欲しかったと見え、「」という薄くて丸いパンが今でも通用している。おそらく、一番好まれるのは、外食に適するサンドイッチ型の「羊肉泡摸」では。寒冷地でもあるから、季節によっては、このパンを小さくちぎって碗の中に入れ、羊肉と野菜のスープを注ぐことになる。「挟摸」だ。一種のパン入りシチューと言えよう。
こうした西域の古い民族料理がそのまま残っているのが西安の一大特徴といえるのではないか。
餃子に注力したように、ここら辺りも色々と試みたに違いなく、その一端が、「羊肉餅」と考えるとよかろう。

要するに、こう考える訳である。

小麦は西域から粉化技術と共に渡来。
その食べ方は、もっぱら、粉を捏ねてから焼くパン。
問題は、中国は気候的に硬質小麦が作れず軟質になってしまう点。グルテン(蛋白質)が少なすぎて、「焼」調理を真似ても、美味しいパンには程遠いのである。
焼くかわりに、粉を炒ることになったりするのだが、それがハッタイ粉(こうせん・麦こがし)[]。これを主食にするのは、一寸難しかろう。

従って、どうしても、小麦澱粉利用の調理方法を考えざるを得ない訳だ。
その要求にドンピシャの技法も伝わってきた。それが、屑肉を小麦粉の皮で包んで茹でる「餃子」。寒い季節には素晴らしい食事となる。東北系ではないかと思うが、「烙餅」も同じようなもの。
当然ながら、これらこそ、中国の北方民族料理圏の代表的な小麦粉料理と言えよう。

こうした流れは自明。
以下の3種類の方向性があろう。
 [0] あくまでもパン追求。
 [1] 餅的なもの。
 [2] 餃子の皮的なもの。
 [3] 饅頭的なもの。
西域のエピゴーネンで留まるなら、[0]で十分。それが、の類ということになる。
一歩進めると[1]で、雑穀での「餅」的な応用の展開と言うよりは、水を加えて捏ね丸く平らにした、パン類似品と考えた方がよさそう。小麦は、粉としてはえらく使い易いから、「」という用語は小麦粉ベースの食品でしか通用しないのは、当然だと思われる。言うまでもないが、焼くことは無理だから、蒸す訳だ。それは「」あるいは「」。
この手の食品は調理に時間がかかって面倒な上に冷えるとさっぱりなので下火になってあたり前。短時間で熱が通り易いものが主流化する筈。その典型が[2]餃子の皮である。中味が入る水餃子ではなく、パンのシチューとも違う、練り小麦粉の切片を加熱し、肉の旨み味で頂く手の料理である。
コレ、料理の一大革命と言ってもよいのではないか。中華文化圏の象徴的食であるのは間違いないからだ。
もちろん、「麺(面)」の発明ということ。
そして、[3]だが、これは菓子ではなく、主食であるから注意する必要があろう。花巻や麺麭は蒸しパンだが、饅頭類と考えるべきものだと思う。蒸し調理になるが、茹でる団子も含む概念と見てよかろう。

つまり、中華料理の心髄は「中味無しの餃子の皮ダケ」あるいは、「麺」を用いた、小麦粉のコナモノ料理にあるということ。

そこで、あらためて<西安料理>を見てみよう。
花椒を利かす四川系の麻辣モノや、山西名物の刀削麺を名物としていたりと、コレこそ西安という印象は至極弱いとはいえ、無い訳ではない。
  哨子麺
  Biangbiang/麺(長命麺)
  番茄蛋麺
  涼皮(三皮絲)
ベルトのような超広幅麺[麺条賽腰帯]の驚きはあるとはいえ、山西の麺料理のバラエティ度と比べてしまうと、メニューがえらく貧相。中華麺料理を代表している土地とは言い難かろう。
まあ、中国全土、どの地域にも名物麺はあるのだから、そのレベルと見なさざるを得まい。と言うか、独自に色々と生み出すというよりは、<西安−蘭州−新疆>という、小麦粉チャネルを通して、新しい麺料理の受信・発信地の役割に徹していたと見るべきか。
その辺りの地勢感覚も重要である。
・・・「河西走廊」:[→2010.11.18], [→2010.11.20]

 【ウズベキスタン〜中央アジア全域】
  Lagman(拉条子)
 【新疆維吾尓】
  拉条子
  面片湯

  拌麺
  (大盤鶏)・・・煮込みだが、幅広麺を加える。
 【青海】
  面片

 【甘粛 敦煌】
  驢肉黄麺
 【甘粛 蘭州】
  蘭州拉麺(清湯牛肉麺)・・・回族料理
  子麺(長寿麺)
  漿水麺・・・夏季解暑用の凉食

ご参考までに、洛陽の名物麺は、豆じっくり煮込みに麺を入れる「漿麺」。
鄭州は「羊肉」。あくまでも調理羊肉の美味しさがウリだと思われる。麺は幅広というか、薄い長方形。野菜も色々入っている、とろみをつけた煮込み麺といったところか。

・・・と言うことで、山西の麺への注力度合いの凄さ [→] がわかって頂けたのではなかろうか。

(利用辞書) [漢字林] 「食部」 http://ksbookshelf.com/DW/Kanjirin/Kanjirin99.html
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