表紙 目次 | 2014.12.14 現代の音楽ジャンルは雅楽方式雅楽の楽器分類は、中国方式とは違うという話をした。→ 「八音と日本の雅楽」[2014.12.2] 一方、現代の歌謡曲からパンクまで、日本の音楽をジャンル分けすると、米国とは一寸違っていそうで、習合と読み替え文化色を感じるとの話も。 → 「和製音楽の分類上での特徴(現代)」[2014.12.5] 両者にはなんの関係もないようだが、それを繋げてみると面白い。 渡来文化の扱いがそっくりなのに気付くからだ。 ジャンルの不可思議さも、宗教感を取り去る体質もまさに同じ。 どういうことか、雅楽の特徴だけ、まとめておこう。 国風歌舞とは、土着信仰の神道儀礼に用いられたもの。しかし、渡来音楽と全く別ジャンルの音楽というほどではなく、ほとんど同じ楽団により、ほんの一部を除けば、全く同じ楽器を用いて演奏される。日本の音楽とはいうものの、世界の音楽のなかに位置付けられている感がある訳だ。 一方、渡来楽は、どう見ても儀式の宴饗席の娯楽用。雅楽と言うなら、経典宗教である仏教と儒教の儀式用音楽であるべきだが、それは全くと言ってよいほど入っていない。普通に考えれば、中国では天子としては、こうした宗教儀式を執り行うことこそ最重要だった筈。そんな音楽があったと思われるのだが日本の雅楽からは全く伺い知れぬ。 当たり前だが、それは宗教性皆無という意味ではない。東大寺で挙行された伎楽には、奇妙な顔立ちの先達に次いで獅子が登場。これだけで外来歌舞であることが即わかる出し物。その後に繋がるお話が、一応、仏教系説話臭がする。しかし、現代の感覚からすれば、それは娯楽臭紛々モノ以外のなにものでもない。 → 「獅子を見て」[2014.11.29] つまり宗教色が強い純粋な儀式用ではなく、お開きの場の座興の音楽を導入して、仏教鎮護国家として正式の雅楽に高めたということでは。 おそらく、日本の雅楽の根幹には、季節的情緒感や霊的現象の音感に合わせた音楽がある。それができないと、清少納言レベルの文化人から、煩いだけだとか、ガラクタ呼ばわりされる可能性もあろう。大陸文化とは根本的に違っていたのでは。 少なくとも、哲学や論理に係るものではないのが一大特徴。それと、雅楽としては不適なら別途設定されるべき、「軍楽」が存在していたようには見えない点も実にユニーク。 常識的には、「宮廷音楽」として認定すべき領域は、以下のように分類されてしかるべきと思うのだが。(日本の音楽の一大特徴は、分類の不可思議性にある。だからこそ習合や読み替えが可能。)雅楽が宗教や哲学ベースで、國楽には国風、外交と軍楽、俗楽が個人的なセンスが光る芸能分野になると思うのだが如何。 ┼┌神楽 ┌┤雅楽 │├仏教楽 │└儒教楽 ┤┌軍楽 │├朝廷儀式楽 │├外交[唐高麗]楽 ├┤國楽 │├田楽 │└主要郷土楽 │┌詩歌朗詠 └┤俗楽 ┼└俗唄吟唱 従って、非国風楽は、表面上儀礼用音楽だが、実態としては魅惑的な外来文化の娯楽色彩濃厚な音楽と言ってもよいのでは。 要するに、土着的音楽に、外来文化を接ぎ木し、バラエティ化を図って楽しんだということ。ムード歌謡臭紛々。 「唐楽」と名付けてはいるが、その中身は、数多くの西域都市国家や、天竺、林邑まで登場する訳で、海外の音楽満載。その範囲の広さこそが嬉しさだったのは間違いなかろう。 そして、なんと言っても秀逸なのは、バンド演奏での歌唱が始まったこと。 「催馬楽」とは不思議な名前だが、要するに、国内各地の民謡を雅楽バンド演奏で歌えるように編曲し、それを洗練させて、宮廷音楽化したということ。まごうかたなきご当地ソングであり、俗っぽい流行歌とも言えよう。 一方、「朗詠」とは、笏拍子のリズムで、旋律楽器の音にのせて、和漢朗詠集の漢詩を歌う出し物。これぞまさしくポップスそのものでは。 「今様」になると、それを越えた独自の主張が入ってくる。いわば、ニュー歌謡。 雅楽は応仁の乱で途絶えかけていたから、おそらく丸のママ残っている訳ではなかろう。京の戦乱で、生活がなりたたなくなったり、関連書物や楽器が焼かれた家は少なくない筈だから。ただ、口伝が多かろうし、家督さえ相続されていれば、ヒトに伝承されているから、なんとか存続していけたのだろう。 そこから、徳川幕府が復活させた訳である。貴族文化として、一部の人々で伝承させておく方針。逆に言えば、民衆には雅楽は縁遠かったと見てよかろう。ただ、獅子舞のように、漏れ出た芸は少なくなさそう。もっとも、それを言い出せば、声明類から様々な民俗芸能が生まれているとなってしまう。しかし、それは雅楽を思い起こさせる類の音楽とは言い難い。 結局のところ、現代の人々にとっては、雅楽は遠い世界の音楽という位置づけだろう。武士階級が好んだ、能や狂言とは違うと思われる。 しかしながら、西欧的富国強兵路線の時代は長いから、アイデンティティとしての日本文化を打ち出す必要上、雅楽教育にも相当に力が入ったろう。にもかかわらず、その影響が現代に残っているようには見えないのが不思議である。消え去ったのだろうか。東儀秀樹さんの登場でようやくにして注目されるようになったというのが現実ではなかろうか。 ところが、現代の日本の音楽ジャンルを眺めると、雅楽的発想は色濃いものがある。となれば、一般の人々に、その感覚が残っていない筈が無かろう。 それがわかるのが、日常用語に残る、雅楽の言葉の多さ。そんなものが何故あるのか考えるのも一興。 もちろん、呂律や塩梅、のような、いかにも不可思議な言葉の語源をして、そう主張しているのではない。大原観光に行けば、呂律位は誰でも覚えるが、そんなレベルではないのである。頻繁に使われる「生きた」言葉が沢山あるのだ。(一部、本当かいなというものもあるが。)・・・ 也毛(野暮)、乞(コツ)、左舞(様)になる、右舞(上手い)、二の舞、二の句、八多羅滅多羅、打ち合わせ、申し合わせ、打ち止め、音頭、頭取、楽屋、毬打(ぎっちょ)、唱歌、序の口/序破急、千秋楽、トとチる、琴瑟相和す、ということで、まだまだありそう。 (孫引き典拠先:「雅楽からきたと云われる言葉、ことわざ」by HIROSAN GOODS) 雅楽の影響力甚大と言えるのでは。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |